説    教               伝道の書720節  ルカ福音書194748

                 「十字架への道」ルカ福音書講解〔179

                  2023・08・20(説教23342026)

 

 「(47)イエスは毎日、宮で教えておられた。祭司長、律法学者また民衆の重立った者たちはイエスを殺そうと思っていたが、(48)民衆がみな熱心にイエスに耳を傾けていたので、手のくだしようがなかった」。これはルカによる福音書のひとつの特徴なのですが、物語の大きな区切りが終わるとき、1節または2節の短い「まとめ書き」が挟まることがあるのです。今朝のこの1947,48節などがまさにそれです。これは同じくルカが書いたと思われる使徒行伝にも共通して見れる特徴です。

 

 そこで、多くの人は、このような「まとめ書き」を簡単に読み飛ばしてしまいがちなのです。牧師にも同じことが言えるかもしれません。まさに今朝の1947,48節のようなところを、きちんと説教に取り上げない牧師先生が多いかもしれないのです。しかし、聖書は創世記11節からヨハネの黙示録2221節まで、それこそ隅々までも福音の御言葉に満ち溢れているのですから、どうか私たちは改めて、そのような思いをもって、今朝のこの「まとめ書き」を正しく読み解いて参りたいと願うものでございます。

 

 そこで、まず47節の最初には「イエスは毎日、宮で教えておられた」と記されています。この「宮」とはエルサレム神殿のことですが、同時に、私たちの教会のことを意味しています。教会とは何かと問われるなら、私たちはどう答えるのでしょうか?。教会は十字架と復活の主イエス・キリストの御身体であり、聖徒の交わりの歴史における現れであり、神の御国のこの世における出張所であり、そして何よりも、聖霊によって現臨したもう主イエス・キリスト御自身が、生きた福音の御言葉を語っておられる主の宮なのです。

 

 教会は神の御言葉(生きた救いの福音)を宣べ伝える主の宮です。そのことが、既に今朝の御言葉の冒頭に、力強く宣べ伝えられているわけです。それでは、その主の宮に対する私たち人間の偽らざる姿というものは、どのようなものなのでしょうか?。それが47節後半から48節が語っている事柄です。「…祭司長、律法学者また民衆の重立った者たちはイエスを殺そうと思っていたが、(48)民衆がみな熱心にイエスに耳を傾けていたので、手のくだしようがなかった」。

 

 ここには、主イエスがお語りになる福音の御言葉に耳を傾けようとはせず、むしろ視眈々と主イエスを殺害せんと狙っている者たち(祭司長、律法学者また民衆の重立った者たち)がいたことが示されています。そして、そうした彼らの行動の基準となるものはポピュリズム(民衆の人気に基づく政治)でした。今朝の御言葉にもはっきりとあらわされているように、彼らはエルサレムの民衆が喜んで主イエスの話に耳を傾けている間は「手のくだしようがなかった」のでした。要するに、自分たちの考えなど無いのです。民衆の支持することを行うことだけが、彼らの行動基準だったのです。まさに彼らは「人民の声こそ神の声」を地で行こうとする人たちでした。

 

 しかしこれは、この現実世界における、あらゆる民主主義体制の持つ、ひとつの大きな罠でもあるのではないでしょうか。デモクラシーとポピュリズムは常に表裏一体なのではないでしょうか。かつてイギリスの政治家ウィンストン・チャーチルは「我々が民主主義体制を取っているのは、それが現時点の世界における必要悪だからである」と言いました。民主主義は必要悪だと言ったのです。それは悪しき制度だけれども必要だからやむを得ないのだと語ったわけです。つまり、チャーチルという人はデモクラシーが簡単に民衆支配になってしまう危険性を見抜いていたわけです。民衆支配の次に来るものは衆愚政治だからです。つまり、いかにして衆愚政治に陥らずに民衆支配を制度的に確立するかがデモクラシー国家の最大の課題なのです。

 

 このことを教会統治に当てはめて論じたのが17世紀のジョン・ミルトンでした。ミルトンは「教会統治に関する神学的見解」という著書の中で「教会の唯一のかしらは主イエス・キリスト以外にありえない。それゆえに、全ての教会の制度組織はキリストの主権に仕え、それを具体的に現すことが目的であらねばならない」と語っています。私は、これは現代の教会論にも通用するとても立派な神学的叙述であると思っています。ミルトンは長老教会の長老であったわけですが、このような鋭い教会的感覚を持った長老を育てることが、牧師の、また教会の、最も大切な課題なのです。

 

 さて、御言葉の先へと進んで参りましょう。「祭司長、律法学者また民衆の重立った者たち」は、民衆の怒りを恐れて主イエスに手出しができずにいましたが、やがてすぐに、それこそ数日も経たぬうちに、主イエスを逮捕して大祭司に引き渡すという実力行使に出ることになりました。それはなぜかと申しますと、このときに主イエスの話を熱心に聴いていた大勢の民衆たちが、数日の後には、それこそ手のひらを反すような勢いで、主イエスに対して「十字架に架けろ」と叫ぶに至ったからです。ルカ伝20章から先の部分には、まさに主イエスの十字架に至るまでの、わずか一週間の出来事が細かく記されているわけです。

 

 そうなりますというと、それこそ彼らの待ち望んでいた状況でありまして、彼らはそれこそ水を得た魚のごとくに、民衆の尻馬に乗るようにして、主イエスの逮捕、そして裁判、そして十字架による処刑へと、目まぐるしく立ち働くようになっていったわけです。まさに、彼らのデモクラシーが衆愚政治そのものであることが明確に示されたのでした。

 

 では、そのような衆愚政治のもたらす混乱の渦の中で、主イエス・キリスト御自身はどうであられたのでしょうか?。今朝の短い御言葉には、主イエスのお姿は直接的には何も示されていません。しかし、そのことは逆に私たちに、主イエスが泰然自若として動かず、混乱のさなかにあっても落ち着き払っておられた事実を示すものであります。主イエスはいつも、主なる神の御心に御自身の全てを委ね切っておられました。人の声の大きさによってではなく、静かに語りかけたもう父なる神の御声にのみ、主イエスはお従いになられたのです。デモクラシー(民衆支配)でははなく、テオクラシー(神の御支配)に御自身の全てを委ね切っておられたのです。だから、主イエスは常に泰然自若としておられました。

 

 先程紹介したジョン・ミルトンが「磯の大波」という詩(ソネット)を書いています。私たちは、自分たちを取り囲んでいる海の恐ろしい波を見ていたく恐れる。泣き叫ぶ者もいるだろう。しかし、あなたたちは安心していなさい、なにも恐れる必要はないのだ。なぜなら、たとえどんなに激しい波があなたたちを襲おうとも、あなたたちがいま立っているその岩は、微塵も揺るぐことはないからだ。その岩こそ、十字架と復活の主イエス・キリストである」。

 

 私たちの教会も、しばしば、この現代社会の中にありまして、この近代民主主義の体制の中にありまして、恐れを抱かざるを得ないことがあるかもしれません。しかし、どうか私たちは忘れないようにしましょう。たとえどんなに世の荒波が私たちを取り囲もうとも、私たちがいま立っているこの岩は(十字架と復活の主イエス・キリストという千歳の岩は)決して揺るぐことはないのです。大切なのは、私たちの教会が、そして私たちの全生活が、この唯一の岩の上に立っていることです。ここから離れないならば、この岩の上に立ち続けているならば、私たちは何も恐れる必要はないのです。

 

 そういうことを、私たちは、今朝のルカ伝1947,48節において、福音として聴き取る幸いを与えられたことを感謝し、盤石の岩なる主イエス・キリストに堅く立ち続ける群れとして、これからも、主イエス・キリストにのみ、全ての人の真の唯一の救いがあることを、宣べ伝え続けて参りたいと思います。祈りましょう。