説    教                詩篇189節  ルカ福音書194146

                 「キリストの涙」ルカ福音書講解〔178

                  2023・08・13(説教23332025)

 

 「(41)いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた、(42)「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら……しかし、それは今おまえの目に隠されている。(43)いつかは、敵が周囲に塁を築き、おまえを取りかこんで、四方から押し迫り、(44)おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである」。(45)それから宮にはいり、商売人たちを追い出しはじめて、(46)彼らに言われた、「『わが家は祈の家であるべきだ』と書いてあるのに、あなたがたはそれを盗賊の巣にしてしまった」。

 

 たしかドイツであったと思いますが、ワインの銘柄に「ラクリマ・クリスティ」というものがあります。それはラテン語で「キリストの涙」という意味です。リープフラウミルヒやシュヴァルツカッツェと並び称される有名なワインです。そこで、キリストの涙がなぜワインの銘柄になったかと申しますと、これは私の推測ですけれども、聖書の中で主イエスが涙を流されたという場面は2か所しかないのです。今朝のルカ伝1941節と、ヨハネ伝1135節です。

 

そして、そのどちらも、主はご自分のために涙を流したまわなかった。すなわち、今朝のルカ伝の御言葉においては、主はエルサレムの人々の救いのために、そしてヨハネ伝1135節においては、ラザロの墓前において涙を流されたのです。

 

 ですから、主イエスの涙は常に、他者のために流されたものです。ご自分のために泣かれたのではなく、主はいつも他の人々のために涙を流したもうた。それで、その涙は私たちのための涙である。主が流したもうた涙は私たち全ての者の救いのためである、ということで、有名なワインの銘柄の名称にもなったのだと思います。つまり「ラクリマ・クリスティ」という名によって、そのワインはとても貴重なものだ、良いものだということを言い、かつ伝えたかったのではないでしょうか。

 

 それはともかくといたしまして、今朝の御言葉の41節と42節には、まことに痛切な涙を流したもう主イエスのお姿がえがかれています。「(41)(主イエスは)いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた、(42)「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら……しかし、それは今おまえの目に隠されている」。ここに、主は涙を流したまいながら「それは今おまえの目に隠されている」とおっしゃいました。その「隠されている」事柄とは、いまこそ救いの時が来ているという福音による事実です。

 

 つまり、私たち人間の姿というものは、例えて言うなら、家が火事になって消防車と救急車を呼んでおきながら、実際にそれが到着しますと、そんなものは要らないと言って追い帰そうとする、そういうまことに愚かな(というよりも、実に支離滅裂な)人間の姿に似ているということです。事実として、エルサレムの人々は、既に千年以上もの長きにわたって、預言者たちが語り伝えた神の御言葉によって、救い主であられる神の子イエス・キリストの到来を待ち望んでいたのです。それにもかかわらず、実際に主イエスがエルサレムを訪れますというと、歓迎するどころか、主イエスを追い払おうとする人々の姿がそこにはあったのでした。

 

 エルサレムの人々は口々に言ったのです、我々が待ち望んでいたのはイスラエルの新しい王になるかたである。ロバの子に乗って、貧しい身なりで、少数のやはり貧しい弟子たちを引き連れて、エルサレムに入城しようとしているナザレのイエスなどは、我々は救い主だとは認めない、彼はキリストなどではない、王ではないからだと、そのように異口同音に申したわけです。

 

 そのような、いわばキリストに無関心な、神の御業に無関心な、神の御言葉を正しく聞こうとしない、そのようなエルサレムの人々に対しまして、彼らの救いを心から願いつつ、主イエスは涙を流して祈りたもうたのでした。今朝の御言葉の続く43節以下をご覧ください。「(43)いつかは、敵が周囲に塁を築き、おまえを取りかこんで、四方から押し迫り、(44)おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである」。

 

 この44節に「神のおとずれの時」という、まことに印象ぶかい御言葉が出て参ります。これは元のヘブライ語の原文を直訳しますなら「神が私たちに介入してきて下さった時」という意味の言葉です。つまり、永遠にして聖なる神が、この歴史的現実の世界に生きている私たちの救いと自由と平和のために、全てを投げうって介入してきて下さった、その時こそ、まさに今である、と告げられているわけでありまして、これは大変な御言葉であると言わねばなりません。

 

 古代ギリシャの哲学者アリストテレス以来、神は「不動の動者」であると信じられてきました。つまり、神は自らは少しも動かずして、パトスを持たずして、他の全てのものを自在に動かす実在であると考えられてきました。トマス・アクィナスなどがそのアリストテレス的な神論を受継いだ代表者ですが、これに真っ向から反対したのが16世紀宗教改革者マルティン・ルターでした。ルターによれば、神は不動の動者などではなく、聖書が私たちに告げているように、御子イエス・キリストによって、この歴史的現実の世界に介入してきて下さったかたである。そして神は聖霊によって、いまもなお尊い救いの御業を、私たちの現実のただ中に現し続けていて下さるかたである。

 

 このことを語るとき、ルターがしばしば引用しておりますのが、今朝のこのルカ伝1941節なのです。「見よ」とルターは言います「見よ、主イエスこそは「不動の動者」ではない神のお姿を私たちにはっきりと示しているではないか。主は私たち全ての者の救いのために涙を流したもうた。その涙は十字架へと直結しているものである」そのようにルターは語っているわけであります。

 

 今朝、併せてお読みした旧約聖書・詩篇189節に、このようにございました。「(9)主は天をたれて下られ、暗やみがその足の下にありました」。これは、どういうイメージかと申しますと、創世記12節にあるように「地は形なく、虚しく」つまり混沌(カオス)が世界の本質であるように私たちは考えているけれども、まさにその、カオスにすぎない私たちのこの歴史的世界のただ中に、主なる神は「天を引き裂いて降りたもうて、カオスのただ中に介入してきて下さった」という音信なのです。ですから詩篇189節はそれだけで、十字架の主イエス・キリストの福音を明確に告げている御言葉であると言わねばなりません。

 

 主は今朝の46節において「『わが家は祈の家であるべきだ』と書いてあるのに、あなたがたはそれを盗賊の巣にしてしまった」と語りたもうて、私たちのこの現実的世界がエゴイズムの巷であることを明確にお示しになりました。しかし、まさにそのような私たちの現実的世界であり、また私たちの歴史的現存在でありますからこそ、神の御子イエス・キリストは、まさに天を引き裂くがごとくに、あのベツレヘムの馬小屋に人としてお生まれ下さり、私たちの罪の現実に介入してきて下さり、私たちの救いのために涙を流したまい、私たちの救いのために十字架を背負うてゴルゴタに登られ、私たちの罪の贖いとして、御自身の生命を献げ切って下さって、私たちに永遠の救いと神の御国の民となる幸いと喜びと自由を与えて下さり、私たちに真の平和を与えて下さったのです。

 

 どうぞ、今朝、はっきりと覚えて戴きたいと思います。主イエスが涙を流したもうたという事実は、詩篇189節にある「主は天をたれて下られ」たという救いの出来事とひとつであるということを。まさに、私たち全ての者のために、まさにあなたの救いのために、主は涙を流して下さり、十字架を黙って負うて、ゴルゴタへの道を(悲しみの道を)歩き通して下さいました。そして、十字架において、私たちの計り知れぬ罪を、御自身の生命をもって贖い、私たちに真の救いと幸いと平和を与えて下さったのです。主イエスは涙を流されたとは、私たちに、まさにそのような「十字架のキリストによる唯一絶対の救いの福音」を宣べ伝えているのです。祈りましょう。