説    教           ハバクク書211節  ルカ福音書193540

                  「石叫ぶべし」ルカ福音書講解〔177

                  2023・08・06(説教23322024)

 

 「(35)そしてそれをイエスのところに引いてきて、その子ろばの上に自分たちの上着をかけてイエスをお乗せした。(36)そして進んで行かれると、人々は自分たちの上着を道に敷いた。(37)いよいよオリブ山の下り道あたりに近づかれると、大ぜいの弟子たちはみな喜んで、彼らが見たすべての力あるみわざについて、声高らかに神をさんびして言いはじめた、(38)「主の御名によってきたる王に、祝福あれ。天には平和、いと高きところには栄光あれ」。(39)ところが、群衆の中にいたあるパリサイ人たちがイエスに言った、「先生、あなたの弟子たちをおしかり下さい」。(40)答えて言われた、「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」。

 

 今朝の御言葉でありますルカ伝福音書の1935節以下を改めて読みますと、とても印象深い御言葉が出て参ります。それは37節に「いよいよオリブ山の下り道あたりに近づかれると、大ぜいの弟子たちはみな喜んで、彼らが見たすべての力あるみわざについて、声高らかに神をさんびして言いはじめた」と記されていることです。ここに「大ぜいの群衆」とありますのは、もちろん十二弟子たちのことも含みますけれども、彼ら以外にも、おそらく何百人もの人々が、主イエスの弟子として付き従っていたのだということがわかるのです。それが、主イエスがエルサレムに入城なさろうとしておられたときの様子でした。つまり、十二弟子以外にも、非常に大勢の人々が、主イエスの弟子として行動を共にしていたのです。

 

 では、これらの「大ぜいの弟子たち」は、いつから、主イエスにお従いするようになったのでしょうか?。それはおそらく、主イエスがエルサレムに入城なさる直前のことではなかったかと思われるのです。先週もお読みしましたように、主イエスはエルサレムに入られるための乗物として、ロバの子をお選びになりました。それは旧約聖書のゼカリヤ書99節に記されている預言が成就されるためでした。つまり、メシアは(十字架の主イエス・キリストは)ロバの子にお乗りになって、エルサレムに入られることになっていたからです。

 

 それなら、まさにその、ロバの子にお乗りになった主イエスのお姿を見て、何百人もの「大ぜいの弟子たち」が、主イエスにお従いするようになったのでした。それは言い換えるなら、主イエスを神から遣わされたキリストであると信じての、信仰から出た行動でした。だからこそ、この「大ぜいの弟子たち」は、今朝の38節にありますように「主の御名によってきたる王に、祝福あれ。天には平和、いと高きところには栄光あれ」と声高く歌いかつ叫んだのです。

 

 そこで、私たちは、これらの「大ぜいの弟子たち」が、歌いかつ叫んだ、今朝の38節の御言葉の意味を、深く心に留めなくてはならないと思うのです。まず、これらの群衆たちは、主イエスのことを「主の御名によって来たる王」と呼びました。この「王」とはもちろん、この世の王のことなどではありません。もし仮にこの世の王であったなら、ロバの子なんかにお乗りになるはずはないからです。なによりも、主イエスは、ヘンデルのメサイアにも歌われているように「王の王・主の主」なるおかたです。この世においていかに権威権勢を誇る王と言えども、真の唯一の王たるキリストの御前には膝をかがめざるをえません。なぜなら、この世の王は数十年間、この世の国家を統治するのみですが、真の「王の王」であられる主イエスは、その十字架による罪の贖いの御業によって、永遠なる神の御国を世に現したもう唯一絶対の救い主であられるからです。その真の王にこそ、神からの永遠の祝福がありますようにと「大ぜいの弟子たち」は歌いかつ叫んだのです。

 

 次に「大ぜいの弟子たち」が歌った言葉の中に「天には平和、いと高きところには栄光あれ」という讃美告白がございました。そして、これを聴くとき、たぶん多くのかたが、同じルカ伝の214節の御言葉を思い起こされることでしょう。それは、最初のクリスマスの晩にベツレヘムの羊飼いらが聴いた、天使たちの歌声とほとんど同じ言葉でした。(14)いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。私たちのこの歴史的現実の世界は、罪の贖いによる真の救いと平和を必要としているのです。いや、ただ単に必要としているだけではなく、全ての人々が心の奥深くに、十字架の主なるキリストによる真の救いと平和を希求してやまないのです。

 

今年は広島と長崎に原子爆弾が投下されてから78年目の記念の年ですけれども、あれほどの痛ましき惨禍があったにもかかわらず、なお人類は、この歴史的現実の世界は、そこから何ひとつとして実際的な教訓を学びえていない現実があるのではないでしょうか。私たちはいまこそ「天には平和、いと高きところには栄光あれ」そして(14)いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」と声高く歌わざるをえないのです。

 

 さて、このような「大ぜいの弟子たち」が歌いかつ叫ぶ様子を見て「群衆の中にいたあるパリサイ人たち」が主イエスに申しました。今朝の39節です。彼らは主イエスに「先生、あなたの弟子たちをおしかり下さい」と申したのです。なぜでしょうか?。その理由は、これらの「大ぜいの弟子たち」が、ロバの子にお乗りになっておられる主イエスのことを、神の御子なるキリストと信じて付き従っていたからです。これは、パリサイ人らにとっては我慢のできないことでした。永遠なる神の御子がロバの子に乗るなんて「ありえない」というのが彼らの理解だったからです。ところが、このパリサイ人らに対する主イエスのお答えは、実に明瞭かつ意味深なものでした。

 

 どうぞ今朝の40節をご覧ください。「(主イエスはパリサイ人らに) 答えて言われた、「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」。英語に堪能なかたはおわかりでしょうけれども、英語圏の慣用句として「石が叫ぶ」という表現は「天声人語」(天の声、人をして語らしむ)という意味です。それは天の声、つまり神の御声なのですから、何者といえどもそれを押し止めることはできません。もしその声を無理に押し止めようとするなら、それこそ「彼らに代わって石が叫ぶ」のです。これは古代イスラエルにおいても確立していた慣用句的表現でした。それを主イエスはパリサイ人らにお語りになったわけです。

 

 いま、英語では「彼らに代わって石が叫ぶ」は慣用句的な表現だと申しましたけれども、ドイツ語ではもっと、今朝の御言葉のギリシヤ語原文の意味に近いのです。ドイツ語で「彼らに代わって石が叫ぶ」というのを“Die Steine werden in seinem Namen schreien”と申しますが、これは直訳するなら「石は彼の名によって叫ぶであろう」という意味になります。この場合の「名」とはもちろん、十字架の主イエス・キリストの御名です。つまり、どういうことかと言いますと、このキリストの御名というのは、ただの指示代名詞ではありません。そうではなくて、私たち全ての者を罪の支配から贖い、永遠の御国の民となして下さる「救いの御名」なのです。つまり「この御名を信ずるものは救われる」のです。この御名には(十字架の主イエス・キリストの御名には)唯一絶対の救いの権威があるのです。

 

 それならば、私たちもまた、この唯一絶対の御名によって救われた僕たちではないでしょうか。もしも、ここに集うている私たち全ての者が、この唯一絶対の救いの御名以外のなにものかを教会の中心軸に据えようとするなら、そのとき、石でさえも彼の名によって叫ぶのです。だから、私たちはいつも、このことを、十字架の主イエス・キリストの御名を、この唯一絶対の救いの御名のみを、信仰生活の中心に据えていなければなりません。旧約聖書の最後の書であるヨエル書232節にもこのようにございます。「すべて主の名を呼ぶ者は救われる」。この場合の「名」とは、主が私たちの救いのためになして下さった全ての御業のことです。主の全ての救いの御業を、この私たちの救いとして信じるなら、ただ一人の例外もなく、必ず救われると、預言者ヨエルははっきりと語っているのです。

 

 言い換えるなら、私たちは、石をして叫ばしめるような信仰生活をしてはならないのです。いつも、礼拝者として、キリストを信ずる者たちとして、神の御言葉に養われつつ、新たにされつつ、御言葉と信仰告白に堅く立つ者たちとして、健やかに歩み続けて参りたいものです。主は私たちの救いのために、十字架と、死と、復活と、昇天という、全ての御業をなしとげて下さいました。それの御業こそが、私たちが信ずる「御名」であり、「すべて主の名を呼ぶ者は救われる」のです。祈りましょう。