説    教            ゼカリヤ書99節  ルカ福音書192834

                  「主の御用のため」ルカ福音書講解〔176

                  2023・07・30(説教23312023)

 

 「(28)イエスはこれらのことを言ったのち、先頭に立ち、エルサレムへ上って行かれた。(29)そしてオリブという山に沿ったベテパゲとベタニヤに近づかれたとき、ふたりの弟子をつかわして言われた、(30)「向こうの村へ行きなさい。そこにはいったら、まだだれも乗ったことのないろばの子がつないであるのを見るであろう。それを解いて、引いてきなさい。(31)もしだれかが『なぜ解くのか』と問うたら、『主がお入り用なのです』と、そう言いなさい」。

 

 今日でもそうですけれども、古代の王は、威儀を(外見上の威厳を)とても気にしました。いわゆるプロトコルを(形式的な儀礼を)大切にしたのです。それは、現代のような、テレビやインターネットなどのような便利な情報ツールがございませんから、いわば見た目の威儀だけが王たるものの徴であると考えられていたことによります。その数多いプロトコルの中でも、特に古代の王たちがこだわったのは、即位の儀式における乗物でした。

 

 王が即位して、その国の首都に入城するとき、威風堂々たる4頭引きの馬車が用いられるのが常でした。もちろん、大ぜいの家臣や従者たちを引き連れての華々しい入城でした。あの有名なパリの凱旋門はナポレオンの即位式の際に建造されたものですけれども、古代イスラエルにおいても、新国王の即位はしばしば凱旋門を建てて祝われたのであります。

 

 主イエスの弟子たちは、主イエスのことを、イスラエルの新しい王になられるかただと確信しておりましたので、当然のことながら、主イエスも、華々しいエルサレム入城のプロトコルをなさるものだと考えていました。そのための具体的な算段をあれやこれやと思案していたわけです。ところが、肝心の主イエスはと言いますと、どうも様子が違うのです。主イエスはエルサレムにほど近い「オリブという山に沿ったベテパゲとベタニヤに近づかれたとき」弟子たちにお命じになって言われますには、今朝の30節にございますように「向こうの村へ行きなさい。そこにはいったら、まだだれも乗ったことのないろばの子がつないであるのを見るであろう。それを解いて、引いてきなさい」と言われたのでした。

 

これには、さすがの弟子たちもびっくり仰天したことでした。このかたはいったい何を考えているのだろうかと危ぶんだことでした。しかも主イエスは、そのような弟子たちの不安な心を見透かされたかのように31節に「もしだれかが『なぜ解くのか』と問うたら、『主がお入り用なのです』と、そう言いなさい」と言われたのです。つまり主イエスは「私はロバの子をこそ必要としているのだ」と明言なさったのです。これは事実上、御自身の王としての即位を完全否定されたことです。私はイスラエルの王になるためにエルサレムに入るのではないよと明言なさったことです。では、なんのために主イエスはエルサレムに入られるのでしょうか?。それは、今朝あわせてお読みした旧約聖書・ゼカリヤ書99節に答えがはっきりと示されているのです。

 

 「(9)シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る」。ここには「シオンの娘」「エルサレムの娘」「義なる者」「勝利」「柔和」という5つの大切なキーワードが出てきます。その5つの言葉のいずれもが、実は十字架のキリストのお姿を、私たちにさし示しているものなのです。つまりここで主イエスは弟子たちに、このゼカリヤ書99節に告げられている十字架の主イエス・キリストこそ、私なのだよとはっきりとお語りになっておられるわけです。私がエルサレムに入るのは、イスラエルの新しい王になるためなんかではない、そうではなくて、全ての人の罪の贖いのために、十字架にかかって死ぬためであると明言なさったのです。ですから「私のためにロバの子を連れてきなさい」とは、明確な十字架の予告なのです。

                                                     

 そして、続く31節にはこのようにございました。「(31)もしだれかが『なぜ解くのか』と問うたら、『主がお入り用なのです』と、そう言いなさい」。(私はかつてイスラエルでずいぶんたくさんのロバを見ました。それは荷物運びのためのロバです。日本にもロバが荷物運びをしている場所があります。それは長崎です)。ロバはイスラエルでは卑しい家畜だと考えられていました。たとえば「あいつはロバのような奴だ」と言えば、それは侮辱の言葉でした。しかし、主イエスは、まさにその、卑しめられ、軽蔑されていたロバを、しかもロバの子を、エルサレム入城の乗物としてお選びになったのです。そして弟子たちに「(31)もしだれかが『なぜ解くのか』と問うたら、『主がお入り用なのです』と、そう言いなさい」とおっしゃったのです。

 

 そこで、私たちはまさにこの「主がお入り用なのです」という言葉にこそ、心を向けなければなりません。ここで私ごとになりますが、ひとつの思い出話をさせて下さい。(島村亀鶴先生の逸話。誰がなにを言うたかて、イエスはんは「おまえやのうてはあかんのや」と言うてはる。よさこいよさこい)。私たちは人間ですから、いかに神の僕、キリストの弟子であると言えども、いや、それだからこそ、様々な欠点や弱さを持っているのは当然であります。それは例えて言うなら、4頭引きの華麗な馬車の隣に、一匹の子ロバがたたずんでいるようなものです。比較にも何にもなりません、較べること自体が愚かです。しかし、主イエス・キリストは、4頭立ての壮麗な馬車ではなく、まさに子ロバにすぎない私たちのことを必要としておられるのです。

 

 それが「主がお入り用なのです」という言葉です。私たちは、もし自分自身を顧みるなら、神の栄光を現しうる要素など何ひとつないと言わざるをえない、欠け多き弱き者にすぎないのですけれども、まさにその、欠け多く弱い私たちを、主は必要としていて下さる。選んでいて下さる。「誰がなにを言うたかて、おまえやのうてはあかんのや」と明言していて下さるかたなのです。それならば、私たちがそのような主に対してお答えすべき姿勢はなんでしょうか?。それこそ従順に他なりません。従順に、心ひとすじに、いそいそと余念なく、喜び勇んで、招きたもう主の御声に従い、選んで下さった主の恵みに寄り頼み、主の御言葉のままに、あるがままの自分をお献げするのみではないでしょうか。

 

 しかも、そのような私たちをお選び下さり、お入り用だとおっしゃって下さる主は、預言者ゼカリヤがいみじくもさし示しているように、十字架の主イエス・キリストなのです。私たちの測り知れない罪を贖い、私たちをあるがままに御国の民となし、天に国籍ある主の僕となして下さるために、御自身の生命を献げきって下さった十字架の主イエス・キリストこそ、子ロバである私たちを「かけがえのないもの」として、まさにあなたが必要なのだ、お入り用なのだとおっしゃって下さる、唯一絶対の救い主なのです。

 

王は、死ねばお終いです。失脚すればお終いです。革命が起こればお終いです。王が交代すれば、あるいは王政そのものが倒されれば、わずか10年で思い出す人さえいなくなります。しかし、十字架の主イエス・キリストは、御自身が神の外に出てまでも、神の外に出てしまった私たちを救って下さったかたです。すなわち、あの十字架という痛ましき手続きを経て、滅びの子でしかありえなかった私たちを、御国の民となして下さり、私たちに永遠の生命を与えて下さり、主の御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会において「聖徒の交わり」に生きる幸いと喜びを与えて下さいました。2000年の年月を経て、いまもなお十字架の主イエス・キリストは、聖霊によって現臨したまい、いつも私たちと共にいて下さり、救いの御業を現し続けていて下さるかたなのです。

 

今朝はどうぞ、この言葉を深く心に留めましょう。「主がお入り用なのです」。まさに十字架の主イエス・キリストが、あなたの唯一永遠の贖い主、救い主、慰め主にいましたもうのです。まさに十字架の主イエス・キリストが、あなたを必要としていて下さるのです。「おまえやのうてやあかんのや」と、ハッキリと告げていて下さるのです。だから、私たちは喜び勇んで、主の御声にお従いするのみです。自分を顧みず、ただ招きたもう主のみを見上げて、主と共に、信仰の道を歩んで参りたいと思います。「主がお入り用」だからです。主があなたを選んで下さったからです。祈りましょう。