説    教              箴言36節  ルカ福音書191127

                  「王と十人の僕」ルカ福音書講解〔175

                  2023・07・23(説教23302022)

 

 先ほどお読みした旧約聖書の箴言第36節に「すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」とございました。この箴言の御言葉と今朝のルカ伝1911節以下は深く関わっているものです。そこで今朝はこの箴言36節をご一緒に念頭に置きながら、福音の御言葉に共にあずかって参りたいと願うものです。

 

 あるところに、王権を受けるために、しばらく本国を離れて遠い旅に出た「高貴な身分の人」がいたのです。新国王になるべきこの人は、自分が留守の間の国政を司らせるために「十人の僕たち」を自分のもとに呼び寄せ、そして彼ら一人びとりに等しく1ミナずつのお金を渡して申しますには「わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい」と言ったわけです。この「商売をしなさい」というのは英語で申しますならマネージメントです。つまり、自分の才覚を最大限に発揮して、このお金を活かして用いてみなさいと命じたわけです。ちなみに1ミナは100デナリ、つまり当時の労働者100日分の賃金に相当する額でした。

 

 これは王が、十人の僕たちの資質を試すためのテストをしたのです。つまり、彼らが国政に携わるに相応しい人物かどうかを見極めるために、あえて1ミナずを預けて、マネージメントの才覚をテストしようとしたのです。その理由は、国内の政治的状況が不安定だったからでした。事実、今朝の14節を見ますと(14) ところが、本国の住民は彼を憎んでいたので、あとから使者をおくって、『この人が王になるのをわれわれは望んでいない』と言わせた」というのです。要するに、国王の留守中にクーデターを画策する連中がいて、新国王を失脚させようとしていたのです。

 

 もちろん王はその不穏な動きを把握しており、そこでこそ、1ミナを委ねられた十人の僕たちの姿勢が問われることになりました。ある僕は、クーデター派の讒言をものともせず、ただ王の言葉だけを信じて商売にいそしみ、やがて王が帰国したときには10倍の10ミナを王にお返ししました。王はたいへん喜んで、彼に10の街を治める務めを与えました。また、ある僕は同じように商売にいそしんで、5倍の5ミナを王にお返ししました。王はこの僕の働きをもたいへん喜んで、5つの街を治める務めを与えました。ところが、僕たちの中には、クーデター派のプロパガンダを鵜呑みにして、王に対する反逆心を起こした者もいたのです。どうぞ今朝の20節をご覧ください。

 

 「(20)それから、もうひとりの者がきて言った、『ご主人様、さあ、ここにあなたの一ミナがあります。わたしはそれをふくさに包んで、しまっておきました。(21)あなたはきびしい方で、おあずけにならなかったものを取りたて、おまきにならなかったものを刈る人なので、おそろしかったのです』」。ようするに、この僕(家臣)は、王ではなく、クーデターを企てた人々の言葉を信じたわけです。21節にあるように「あなたはきびしい方で、おあずけにならなかったものを取りたて、おまきにならなかったものを刈る人なので、おそろしかったのです」と申したのです。これはクーデター派のプロパガンダを鵜呑みにして、それをさも自分の言葉のように語ったにすぎませんでした。それに対する王の仕打ちは苛烈なものでした。マキャベリズムに徹した審きが行われたのです。それは、国家と人民の幸福を願えばこその審きでした。

 

 そこで、主イエスがなさったこの、長い譬話の意味する事柄は何でありましょうか?。まず、王権を授けられるために遠い旅に出た高貴な身分の者とは、神の御子イエス・キリストのことをさしています。そして、彼が王権を授けられて戻ってきた国とは、私たちが住むこの世界のことです。そして、十人の僕たちとは私たちのことであり、クーデターを、つまり新国王の失脚を画策した人々とは、罪の誘惑のことを意味しています。そうすると、私たちにもよくわかるのではないでしょうか。神の御子イエス・キリストは、御自身の十字架のことを「私が受くべき栄光」とお呼びなりました。父なる神のもとから私たちの住むこの世界に主イエスが遣わされた理由は、私たちの罪の贖いとして十字架にかかられることによって、この世界と歴史全体を救う永遠の王権を(すなわち神の恵みの支配を)確立されるためです。

 

 だからこそ、まさにゴルゴタの十字架のことを、主イエスは「私が受くべき栄光」とお呼びになられたのです。ご自身の十字架による贖いによってのみ、この世界と歴史の中に、全ての人を救う永遠の神の主権が(神の国が)確立するからです。しかし、この世界は、そして私たちは、絶えず罪の(悪魔の)誘惑にさらされています。そして私たちは、罪の誘惑に対して、とても脆く弱い存在にすぎません。ちょうど、王の留守中に政権の転覆と王の失脚を画策する者たちのプロパガンダを鵜呑みにしてしまった家臣のように、私たちもまた、人生の重要な局面においてこそ、神の御言葉に聴き従うのではなく、罪の誘惑に屈してしまうことが、しばしばあるのではないでしょうか。よく世間では「苦しい時の神頼み」と言います。私は、それは良いのではないかと思います。むしろ私たちはどうかと言うと「苦しい時の神離れ」になってしまうことのほうが多いのではないでしょうか。

 

 「私は家庭の中に、とても複雑で難しい問題を抱えているので、しばらくのあいだ礼拝をお休みさせて戴きます」と、私に言ってきた人がいました。私は思わずその人の顔を呆然と見つめてしまいました。逆ではないでしょうか?。私たちは家庭でも、職場でも、近所隣の人間関係においても、とても複雑で難しい問題を抱えることがあるのです。ゲーテが語っているように、私たち人間は努力する限り迷うものなのです。問題はその後です。では、そうした複雑な難しい問題があるから、だから私はますます礼拝に熱心に通わなければならない、神の御言葉に聴き従う生活を整えていかなければならない、それが本当の私たちなのではないでしょうか?。そこにキリスト者の幸いがあり、自由と平安があるのではないでしょうか。

 

宗教改革者マルティン・ルターは「私は今日、2時間祈らなければならなかったほど、忙しかった」と日記に書いています。私たちはどうでしょうか?。ルターと逆の生き方をしてはいないでしょうか。忙しければ礼拝を休んで良いんだ、心が乱れているからお祈りなんかできないんだ、複雑な問題があるから神の言葉どころじゃないんだ、もし私たちが少しでもそう思ったことがあるのでしたら、私たちこそ、今朝の御言葉の3番目の家臣の姿と同じなのです。肝心な王様を信じるのではなく、クーデター派の者たちのプロパガンダを信じた家臣のように、私たちもまた、神の御言葉ではなく、罪の誘惑を信じてしまう、愚かなことをしているのではないでしょうか。

 

 今朝お読みした旧約聖書の箴言第36節に「すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」とございました。私たちは、十字架の主イエス・キリストによってのみ、全ての罪が贖われて、真の自由を得ることができるのです。すなわち、私たちの人生のどの局面、どの日々においても「主を認めること」が大切なのです。そのとき、私たちの道はまっすぐなものになるのです。私たちはこの相対的かつ限定的な、歴史の中での歩みをしている存在ですけれども、その私たちの日々の歩みそのものが、永遠の御国への旅路となる幸いを、いま私たちは主の御手から与えられているのです。まさに、私たちに救いと永遠の生命とをお与えになるために、主はあのゴルゴタの十字架において、私たちの罪の贖いとなって下さったのです。祈りましょう。