説    教            詩篇2316節  ルカ福音書19110

                「罪人の家に入る神」ルカ福音書講解〔174

                  2023・07・16(説教23292021)

 

 「(5)イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」。(6)そこでザアカイは急いでおりてきて、よろこんでイエスを迎え入れた。(7)人々はみな、これを見てつぶやき、「彼は罪人の家にはいって客となった」と言った」。

 

 私たちは先週の主日礼拝に引き続いて、本日もルカ伝191節以下の御言葉を通して、共に福音の御言葉にあずかる幸いを得たいと願うものであります。そこで本日は特に、この19章の中から5節以下の御言葉に特に集中して「罪人の家に入る神」という視点から、この御言葉を読み解いて参りたいと思います。

 

 主イエスがなぜ、エリコの取税人ザアカイの名をご存じでいらしたのか、その理由について、皆さんはお考えになったことがあるでしょうか?。ある聖書注解書によれば、ザアカイは近隣の地域にまで悪名を轟かせていたからだという説もありますし、または、主イエスの家系に連なる縁戚関係にあったからだという説もあります。しかし、私はそのどちらの説にも同意しかねるのです。

 

 なによりも、主イエス・キリストというかたは、永遠なる唯一の真の神の独子であられるのです。西暦381年のニカイア信条に告白されているように「真の神よりの真の神」にいましたもうおかたなのです。それならば、主イエス・キリストは天地万物の創造主と等しきおかたです。それならば、私たちの髪の毛の数さえも全てご存じであられる父なる神と同様に、エリコのザアカイの名前をも、知っておられたとしてもそこには何の不思議もないのではないでしょうか。

 

 まことの神は、私たち一人びとりの名を呼んで下さるおかたです。例えて言うなら、そこに何千人の子供がいましょうとも、親にとって最愛の我が子は一人であるのと同じように、主なる神にとって、私たちは常に、最愛の我が子と同じ、唯一の、かけがえのない存在なのです。神が私たちの名を呼びたもうとは、まさに私たちを、唯一のかけがえのない存在として愛していて下さるからです。だから主イエスは、いちじく桑の木に登っていたザアカイに慈しみの眼差しをおとめになり「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」と言いたもうたのです。ザアカイの名を呼びたもうたのです。

 

 さて、ここまでなら、私たちにはごく自然に納得できることではないでしょうか?。神は全ての人を、かけがえのない唯一の存在として愛して下さるおかただである。そう聞いて異を唱える人は、おそらく一人もおりますまい。それはアドルフ・フォン・ハルナックという人が120年ほど前に「キリスト教の本質」という本で語った事柄とも一致します。つまり、ハルナックによれば、キリスト教の本質は、主イエスの愛の教えにあるからです。しかし、ザアカイにとって、いや、私たち一人びとりにとって、本当の問題はそこから始まるのです。それはなにかと申しますと、私たちにとって、主なる神に愛されるということは、決して自然なこと、当たり前のこと、当然のことなどではないということです。

 

 改めて、今朝の7節をご覧ください。そこには、取税人ザアカイの名をお呼びになり「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」とおっしゃって、ザアカイの家に客となられた主イエスに対する、エリコの町の人々の赤裸々な反応が描かれています。つまり7節に「人々はみな、これを見てつぶやき、「彼は罪人の家にはいって客となった」と言った」とあることです。

 

 ザアカイは、エリコの町の人々にとって、蛇蝎のごとくに憎むべき取税人でした。いわば罪人の代表格でした。エリコの町の人々にとって、ザアカイは罪人のかしらであり、罪人のかしらはすなわちザアカイでした。だからこそ人々は、ザアカイの家に喜んで客となられた主イエスのお姿を見て失望したのです。あたかも潮が引くように主イエスから心が離れていったのです。ポピュリズムの行く末は常にそのようなものです。歓呼の声で主イエスを迎えた、その同じ群衆が、わずか数週間の後に、ゴルゴタの丘に続く道において、十字架を背負って歩みたもう主イエスに向かって、罵声を浴びせ、石を投げ、唾を吐きかけ、呪いの言葉を口にしたのです。「十字架につけよ!」と叫んだのです。

 

 それは同時に、私たちの偽らざる姿でもあるのではないでしょうか。あなたも、あのゴルゴタの丘へと続く道の途中で、主イエスに石を投げた、その一人ではなかったでしょうか?。その理由は「彼は(主イエス・キリストは)罪人の家にはいって客となった」ことによります。主イエスが、王になるべきおかたではなく「罪人の家にはいって客となった」かたであると知った瞬間、群衆の、私たちの、主イエスに対する思いは、一瞬にして憎しみに変わったのです。歓呼の声が、一瞬にして呪いの声に変わったのです。そこに、私たち人間の恐ろしさ、罪深さが現れているのです。

 

 さて、そこで私たちのまなざしを、今度は主なる神ご自身へと向けてみましょう。そのとき、私たちには何が見えてくるのでしょうか?。それは、自分のことを棚に上げて、他者を審いていた私たち自身こそ、実は、神によった審かれるべき「罪人のかしら」そのものだという事実です。私たちは、他人の罪はわかっても、自分自身の罪はわからないし、知ろうともしないのです。自分のことはいつも治外法権に置いているのです。それが使徒パウロの言う「自分を義とする罪」です。自分を義する罪、自分を神にのし上げようとする罪、自己神格化の罪から、逃れうる人は一人もいないのです。まさに「義人なし、一人だになし」なのです。

 

 それならば、永遠の神の唯一の独子なる主イエス・キリストは、まさにそのような私たちの家に、客となられて入って来て下さった神なのです。「罪人の家に客となられた神」なのです。そこには、ハルナックが見落としていた、神のまことのお姿があります。それは、私たちの測り知れない罪を背負って、まさに私たちに救いと永遠の生命を与えて下さるために、あのゴルゴタの丘を、十字架を背負って歩んで下さった神のお姿です。十字架のキリストのお姿です。十字架におかかりになった主イエス・キリストにこそ、まことの、唯一の、永遠なる神の、本当のお姿が現れているのです。

 

 繰り返して申します。どうぞ全てのかたが、心に留めて頂きたいのです。まことの神の唯一の独子なる主イエス・キリストは、ただ単に、私たちを唯一のかけがえのない子として愛したもうだけではなく、私たちの自己義認という恐ろしい罪を背負って、ゴルゴタの十字架におかかりくださって、御自身の生命を献げ尽くして、私たちの罪の贖いとなって下さった、まことの救い主であられるのです。だからこそ、私たちはこのかたを、単に「ナザレのイエス」ではなく「神の子イエス・キリスト」とお呼びするのです。

 

 まことの神は、ただ私たちを限りなく愛したもうただけではない、私たちの罪を贖い、私たちを救って下さるために、御自身の生命さえも献げ尽くして下さったおかたなのです。ユルゲン・モルトマンというカール・バルトの弟子は「まことの神は、十字架にかかりたもうた神である」と語っています。十字架にかかって、私たちの唯一永遠の贖いとなって下さった神こそ、まことの神にいましたもうのです。そして、私たちは、当然のように神に愛されるべき存在などではないのです。むしろ私たちは、義人の対極にある、呪われた罪人のかしらに過ぎません。それならば、まことの神は、まさにその、呪われた罪人のかしらであった私たちを、それにもかかわらず、かけがえのないわが子として、限りなく愛して下さったおかたなのです。

 

 愛されて当然なものを愛することはごく自然なことで、そこにはなんの無理もありません。しかし、愛しえざるもの、罪人のかしらなる私たちを、それにもかかわらず愛したもう神のお姿は、ゴルゴタの十字架の上に釘付けられた主イエス・キリストのお姿となるのです。それは自然的な愛を遥かに超えた、超自然的な愛であり、救いの恵みであり、私たち全ての者に対する、永遠のたしかな祝福なのです。神は、罪人の家を訪ねて、客となって下さるかたなのです。祈りましょう。