説    教        エゼキエル書341112節  ルカ福音書19110

                「失せたる人を尋ねる神」ルカ福音書講解〔173

                  2023・07・09(説教23282020)

 

 「(1)さて、イエスはエリコにはいって、その町をお通りになった。(2)ところが、そこにザアカイという名の人がいた。この人は取税人のかしらで、金持であった。(3)彼は、イエスがどんな人か見たいと思っていたが、背が低かったので、群衆にさえぎられて見ることができなかった。(4)それでイエスを見るために、前の方に走って行って、いちじく桑の木に登った。そこを通られるところだったからである」。

 

 今日は「失せたる人を尋ねる神」という視点から、このルカ伝101節以下の、いわゆる「ザアカイと主イエスの出会い」を紐解いて参りたいと思います。エリコという街は、地中海の水面下約400メートル。地球上で最も低い位置にある町として知られています。死海のほとりに近い荒野の中のオアシスにある古い町ですが、古代からエジプトとメソポタミアを結ぶ重要な交通の要衝でした。そこに、ザアカイという名の「取税人のかしら」が住んでいたのです。

 

 取税人というのは、古代イスラエルにおいて、宗主国であったローマ帝国のための人頭税を徴収するために、ローマの官憲によって立てられた役職でした。つまりザアカイは、ユダヤの人々の目から見るなら、同じユダヤ人でありながら、宿敵ローマのために税金を徴収する悪い人間、売国奴、裏切り者、であったわけです。しかしながら、ザアカイには、同胞たちから白い目で見られたとしても、なお取税人という役職にしがみつきたい理由がありました。それは、取税人になることは、多くの経済的な富を得ることだったからです。

 

 事実として、ザアカイは、豪華なローマ風の家に住んでいたと思いますし、毎日毎晩、贅沢三昧な暮らしをしていたことでありましょう。しかし、エリコの街に友人と呼べる人は一人もいませんでした。ザアカイは、町中の人たちに蛇蝎のごとくに嫌われ、蔑まれていたからです。そのようなおりしも、ザアカイは、このエリコの街に、主イエスがおいでになるという噂を聞き付けました。その噂によれば、ガリラヤのナザレ出身のイエスは、旅する先々の町々や村々で、病気の人を癒して下さり、数々の奇跡の御業を行い、力強く権威ある言葉で、人々に神の国の福音を宣べ伝えておられるということでした。

 

 ザアカイは、なんとかして主イエスにお会いしたいと思いました。主イエスとお話がしたいと切実に願ったのです。ですから数日の後、主イエスがエリコに来られたとき、ザアカイは街の大勢の群衆と一緒に、外に出て、主イエスのお姿を一目でいいから見たいと思いましたが、彼は背が低かったために、群衆に遮られて、主イエスのお姿を見ることができませんでした。しかも街の人々はザアカイのことを蛇蝎のごとくに嫌っていましたから、わざとザアカイに主イエスを見せないように意地悪をしたのではないでしょうか。ザアカイは全く途方にくれました。

 

 ところがそこに、一本のイチジク桑の木があったのです。それが、先ほどお読みした4節までの状況です。「(4)それで(ザアカイは)イエスを見るために、前の方に走って行って、いちじく桑の木に登った。そこを通られるところだったからである」。私は30数年前にエリコに参りましたとき、このときザアカイが登ったというイチジク桑の木を見ました。それは道路の真中にある、かなり大きな木でした。下には立札がありまして、ヘブライ語、アラビア語、英語、ドイツ語の4か国語で「ザアカイが登った木」と書かれていました。しかしなにしろ2000年前の出来事なのですから、その木は何代目かの木なのだと思います。ともかく、ザアカイは必死になってそのイチジク桑の木に登って、下をお通りになる主イエスのお姿を見ようとしたわけです。

 

 今朝の御言葉の、続く5節以下をご覧ください。「(5)イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」。(6)そこでザアカイは急いでおりてきて、よろこんでイエスを迎え入れた。(7)人々はみな、これを見てつぶやき、「彼は罪人の家にはいって客となった」と言った」。

 

 実に驚くべきことが起こったのでした。主イエスはその場所に来たとき、急に上を見上げて、ザアカイと視線を合わせたまいました。そして、さらに驚くべきことには、主イエスはザアカイの名を呼ばれたのです。「ザアカイよ、急いで下りてきなさい」と言われたのです。そればかりではありません、なんと主イエスは、驚くザアカイに「きょう、あなたの家に泊まることにしているから」と言われたのでした。ザアカイは、あまりの出来事に、自分の耳を疑ったことでした。そして、急いで木から下りてきますと、もう大喜びで主イエスを、自分の豪勢なローマ風の邸宅に迎え入れたわけであります。

 

 町の人々はこの様子を見て「(7)人々はみな、これを見てつぶやき、「彼は罪人の家にはいって客となった」と言った」とございます。なんだ、主イエスというかたは、たいしたことのない人だ。取税人ザアカイの家に、罪人の家に入って、客になったのだからと、口々に主イエスの批判を始めたというのです。しかし、ザアカイはと申しますと、もう大喜びで主イエスを客としてお迎えして、たくさんの御馳走を食卓に並べ、主イエスも喜んでザアカイと食卓を共にされたのです。そして、その食事の席上、主イエスはザアカイに、神の国の福音(神の永遠の恵みのご支配は、いま、あなたのもとに来ているという福音)をお語りになりました。そこでどうぞ、今朝の御言葉の続く8節以下をご覧ください。

 

(8)ザアカイは立って主に言った、「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。(9)イエスは彼に言われた、「きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。(10)人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。ここに、取税人ザアカイの救いの出来事が起こりました。町中の人から憎み嫌われていた彼のローマ風の家に、いま、主イエス・キリストによって、救いがもたらされたのです。ザアカイは立って言いました。「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」と。それは、ザアカイの信仰告白でした。いままでは経済的な富だけが人生の目的だった。しかしこれからは、神の僕として新しい人生を歩む者になりますと誓ったのです。

 

 だから、主イエスはザアカイに、そしてここに集う私たち全ての者に、いまはっきりとこう宣言して下さいます。「(9)イエスは彼に言われた、「きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。(10)人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」と。私たちが救いの恵みを受けるのはいつなのですか?。主イエスははっきりとおっしゃいます「きょう、救がこの家に来た」と。そして、私たち全ての者に「あなたもアブラハムの子、すなわち、旧約聖書において約束されている、救いと永遠の生命に、あずかる人とされているのだ」と、いまはっきりと、主ご自身が、私たち全ての者に、語っていて下さるのです。今朝のエゼキエル書341112節にも、このようにございました。「(11)主なる神はこう言われる、見よ、わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す。(12)牧者がその羊の散り去った時、その羊の群れを捜し出すように、わたしはわが羊を捜し出し、雲と暗やみの日に散った、すべての所からこれを救う」。

 

 今朝のルカ伝の、最後の10節の御言葉は、特に大切です。「(10)人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。この「人の子」とは、主イエス・キリスト御自身のことです。私たち全ての者のために、この全世界の全ての人と、歴史全体の救いのために、私たちの罪を担って十字架におかかり下さった、神の御子イエス・キリストのことです。このかたが、十字架の主が、あのゴルゴタの丘で呪いの十字架を担い取って下さったのは、それは「失われたものを尋ね出して救うため」なのです。罪によって死んでいた私たちを、滅びの子でしかありえなかった私たちを、永遠の御国の民として下さり、救いと永遠の生命を与えるために、主イエス・キリストは、あの呪いの十字架において、御自身の生命を献げ尽くして、私たちの贖いとなって下さったのです。

 

 そこに、十字架の主イエス・キリストの御業と恵みに、私たち全ての者の真の、永遠の救いがあるのです。そこに「失われたものを尋ね出して救うため」に私たちのもとに来て下さった神による、救いの御業があるのです。まさにその救いの御業に、いまここに集うている私たち全ての者が、あずかる幸いと喜びを与えられているのです。まことに私たちの主にして唯一の神は「失せたる人を尋ねる神」にいましたもうからです。祈りましょう。