説    教              詩篇369節  ルカ福音書183543

                  「見ることを得よ」ルカ福音書講解〔172

                  2023・07・02(説教23272019)

 

 「(35)イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道ばたにすわって、物ごいをしていた。(36)群衆が通り過ぎる音を耳にして、彼は何事があるのかと尋ねた。(37)ところが、ナザレのイエスがお通りなのだと聞かされたので、(38)声をあげて、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんで下さい」と言った。(39)先頭に立つ人々が彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子よ、わたしをあわれんで下さい」。

 

 一人の盲人が、すなわち、目の不自由な人が、エリコという街に近い道ばたに座って「物乞いをしていた」のでした。彼が物乞いを生業としていたのは、当時のユダヤの社会的状況がしからしめた事情もあったでしょうけれども、彼にとっては、物乞いをしなくては、日々の生活が成り立たなかったからでした。背に腹を変えることはできませんから、毎日、街道筋に座って、道行く人に物乞いをしていたわけであります。

 

 そこに、36節をご覧ください、「群衆が通り過ぎる音を耳にして」とございます。なにやらいつもとは違って、エリコに続く街道を大勢の人々が走って行く様子でした。そこで彼は一人の人を呼び止めて「いったい何事が起こったんですか?」と訊ねましたところ、ナザレのイエス様がエリコにおいでになるんだと聞いたわけです。既にガリラヤのナザレ出身のイエスという人のうわさは、この盲人の耳にも届いていました。その噂によれば、ナザレのイエスは、人々の病気を癒し、権威ある言葉で神の国の福音を宣べ伝え、数々の奇跡の御業を行っておられるということでした。

 

 そこで、彼は、これは実に千歳一遇の機会に違いない。エリコに行かれるというのであれば、イエス様はかならず、この道をお通りになるはずだ。そうだ、イエス様がここをお通りになるとき、私はこの目を見えるようにして戴こう。私の目を癒していただこう。そのように彼は思い定めまして、主イエスがお通りになるのを待っていたわけです。しかし、いったい、どのように主イエスに声をかけたらよいものか、いったいどうしたら、主イエスに振り向いて戴けるものか、そんなことをあれやこれやと思案しておりますうちに、主イエスが近づいて来られる様子が聞こえてきた。もちろん、周りを大勢の人々が熱狂的に取り巻いておりますから、普通の声を出したのでは、とても気が付いて戴けないだろう。そう思いまして彼は、あらん限りの大きな声で、主イエスに向かって呼びかけたわけです。

 

 どうぞ今朝の御言葉の38節をご覧ください。「(38)声をあげて、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんで下さい」と言った」。この「声をあげて」というのは、もともとのギリシヤ語では、大声を出して、叫んで、という意味の言葉です。彼はあらん限りの大きな声で、主イエスに向かって「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんで下さい!」と叫んだのでした。これは、切なる祈りの言葉でした。そして「ダビデの子イエスよ」と叫んだのは、ナザレのイエス様こそ、私の救い主、キリストです」という信仰告白でした。私たちはどうでしょうか?。日々の祈りの生活において、私たちは、このような祈りを献げているでしょうか?。「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんで下さい!」。

 

 私は週報の報告蘭の下のところに、16世紀の宗教改革者たちの祈りの言葉を翻訳して載せています。これは、彼らの祈りが本当に素晴らしいものだからです。私たちの祈りのお手本になるものだと思うからです。私がその翻訳の種本にしているものは、100年ほど前にドイツで出版された宗教改革者たちの祈祷集です。その祈りの多くはラテン語で書かれています。それを読んだり、紹介しておりますうちに、私は一つのことに気づかされました。それは、16世紀の宗教改革者たちが、いつも主なる神に向かって「われをあわれみたまえ」と祈っていることです。ラテン語そのままの表現で申しますならmiserere meという言葉です。あるいは「私たちをあわれみたまえ」と複数形ならmiserere nobisとなります。いずれにしても、このような「あわれみたまえ」という祈りを、私たちは日ごろの祈りの生活において、しばしば、否、いつも、忘れてしまっていることはないでしょうか。

 

 マルティン・ルターが語った有名な言葉のひとつに「全ての人間は、神の前に一人の物乞いにすぎない」というものがあります。これは、私たち人間は、神の御赦しと御恵みを戴くよりほかに救いの可能性を持たない存在だという意味です。言い換えるなら、私たちの救いの可能性は微塵も私たち自身の中には無いのであって、それは全て、神の御赦しと御恵みにのみあるのです。だからこそ、その救いは全ての人を救う、たしかな、確実な、永遠の救いなのです。それを明確に表現した言葉こそ、ルターが語った「全ての人間は、神の前に一人の物乞いにすぎない」であります。そう考えるならば、今朝の御言葉の、この物乞いは、実は、私たち自身のことなのです。私たちこそ、主なる神の御前に、自分を救ういかなる手立ても手段も持ちえず、ただひたすらに、神の御赦しと御恵みを乞うよりほかにない存在だからです。「神よ我をあわれみたまえ」と祈らざるをえないのです。

 

 どうぞ、今朝の御言葉の39節以下をご覧ください。「(39) 先頭に立つ人々が彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子よ、わたしをあわれんで下さい」。(40)そこでイエスは立ちどまって、その者を連れて来るように、とお命じになった。彼が近づいたとき、(41)「わたしに何をしてほしいのか」とおたずねになると、「主よ、見えるようになることです」と答えた。(42)そこでイエスは言われた、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」。(43)すると彼は、たちまち見えるようになった。そして神をあがめながらイエスに従って行った。これを見て、人々はみな神をさんびした」。これを読んでわかりますように、この物乞いの人の叫びは、ただ一度だけではありませんでした。人々が彼のことを叱って、黙らせようとすればするほど、ますます彼は声を張り上げて、何度も何度も「ダビデの子よ、わたしをあわれんで下さい」と祈り続けたのです。

 

 主イエスは、彼の叫びをお聞きになって、道に立ち止まりたまい、彼をご自分のもとに連れてくるようにと人々にお命じになりました。他の福音書には「喜べ、イエス様がお前を呼んでおられるぞ」という、人々の声が記されています。この物乞いの人が、つまり、私たちが、主イエスの御前に立ちました。人々が「喜べ、イエス様がお前を呼んでおられるぞ」と言って、私たちを、あなたを、主イエスのところに連れて来てくれました。そこで主イエスは私たちに御声をかけて下さいます。「わたしに何をしてほしいのか?」と。そこでこそ、私たちは、あなたは、いったいなにを願うのでしょうか?。どのような祈りを、求めを、願いを、主イエスに向かってお献げするのでしょうか?。今朝のこの御言葉の物乞いの人は「主よ、見えるようになることです」と申しました。そう祈ったのです。それは、どういうことなのでしょうか?

 

 私たちは、盲人ではないかもしれません。私の学生時代からの親友に、全盲の人がいますが、私は東京で、道に迷ったときに、いつもこの友人に道を教えてもらっていました。見える私よりも、もっと東京の地理に詳しく、見えている人でした。私たちは、盲人ではないかもしれない。だから、違う祈りになるのでしょうか?。違う求めになるのでしょうか?。そうではないと思います。私たちもまた、否、私たちこそ、「主よ、見えるようになることです」と、祈らざるをえない者たちなのです。なぜなら、この物乞いの人がそうであったように、私たちの前にも、あなたの前にも、十字架の主イエス・キリストがおられるからです。

 

 私たちは、ただ信仰という眼差しによってのみ(つまり聖霊が与えて下さる新しい視力によってのみ)十字架と復活の主イエス・キリストを、見る者とされるからです。十字架と復活の主イエス・キリストのみが、私たちの、あなたの、唯一にして永遠の救い主、贖い主であられることを、見る者とされるからです。だからこそ、私たちもまた、否、私たちこそ、この物乞いの人と同じように「主よ、見えるようになることです」と祈らざるをえません。「神よ、われを憐れみたまえ」と祈らざるをえません。

 

そして、なんと幸いなことでしょうか。主イエス・キリストは、いつでも、必ず、その私たちの祈り求めに、たしかにお応えくださるのです。すなわち、今朝の御言葉の42節です。「(42)そこでイエスは言われた、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」。(43)すると彼は、たちまち見えるようになった。そして神をあがめながらイエスに従って行った。これを見て、人々はみな神をさんびした」。まさにこの救いの出来事が、神讃美の歌声が、あなたの人生にも必ず起こるのです。いま、ここに集う私たち一人びとりが、神の御赦しと御恵みに、豊かにあずかる者たちとされているのです。祈りましょう。