説    教              詩編316節  ルカ福音書181517

                  「主イエスの幼子となる」富士教会にて

                  2023・05・25(説教23262018)

 

 「(15)イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。(16)しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。(17)はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。

 

 今朝のこの、ルカによる福音書1815節以下は、一見したところわかりやすそうな御言葉に見えますが、実は決して「わかりやすい」ものではありません。出来事としてはごく単純なことでした。心温まるエピソードと言っても良いでしょう。「イエスに触れていただくために、人々が乳飲み子までも連れて来た」とき、弟子たちがそれを見て、親たちを叱ったことが事の発端でした。ようするに「イエスさまは忙しいかたなのだから、幼子なんか連れて来られては困る」と言ったわけです。弟子たちにしてみれば、お忙しい主イエスのためを思っての発言でした。

 

 ところが主イエスは、そのような弟子たちの言葉と態度を、逆に窘めたもうたのです。そして、乳飲み子たちを(幼い子供たちを)ご自分のもとに呼び寄せて、膝の上に抱いて、祝福して言われますには「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」。もちろん幼子の親たちは大喜びだったことでしょう。窘められた弟子たちは憮然としていたかもしれません。いずれにせよ、出来事としては単純な、心温まる出来事であり、主イエスというかたの優しいお人柄をあらわすエピソードであるとも言えるのではないでしょうか。

 

 なによりも、私たちもまた、今朝のこの御言葉を、主イエス・キリストの御人格の優しさを現わすものだと理解し、たとえば「イエスさまは子供が大好き」というような形でわかったような気になっていることが多いのではないでしょうか。日曜学校の礼拝や、日曜学校教師修養会などでも、そのような理解がなされることがよくあります。「ほらご覧なさい、イエスさまは子供を大切にして下さった。だから日曜学校を休まず礼拝に出席しましょう。教会は子供たちを大切にしましょう」そういう形の話がよくなされるわけであります。

 

 それは、決して間違いではありません。いわば「イエスさまは子供が大好き」という文脈から、今朝の御言葉を読み解くことも可能なわけです。しかし、そこで問題になるのは、それだけでは、今朝の御言葉の17節の意味がよく理解できなくなるということです。「(17) はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。ここでは、主イエスのまなざしと御言葉は一転して、私たち一人びとりに向けられています。つまり「イエスさまは子供が大好き」という文脈においては、私たちは単なる傍観者の一人、つまり、主イエスの膝の上で祝福を受ける幼子たちを、微笑みながら見つめている人々の一人にすぎないわけです。しかし17節においては一転して、私たち一人びとりに対して、厳しい御言葉が向けられているのです。このことを、私たちはしっかりと読み取らなくてはなりません。

 

 「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。(17)はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。つまり、主イエスは私たちに対してこう語っておられるのです。「この幼子たちは神の国に入ることができる。しかし、あなたたちは、これらの幼子のように神の国を受けいれる者でない限り、そこに入ることは決してできないのだ」。これが厳しくなくして、なにが厳しい御言葉なのでしょうか。今朝の御言葉は単なる「心温まるエピソード」を私たちに物語るものではなく、ここにいる私たち一人びとりに対して、福音に基づく新しい生き方を、そして神に対する悔改めを促すものなのです。

 

 主イエスは「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われました。この御言葉の意味を、さらに探って参りましょう。そもそも「子供のように神の国を受けいれる」とは、どのようなことなのでしょうか?。この謎を解く鍵は、今朝あわせてお読みした旧約聖書の詩編316節にあります。「(6)まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください」。お気づきになったかたもあると思いますが、これは、主イエスの十字架上の言葉でもあるのです。それはルカ伝2346節に出てくる言葉です。「(46)イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた」。そして、このすぐ後で「まことにこのかたは神の子であった」という百卒長の信仰告白が続いているのです。

 

 幼子とは、コップに例えて言うなら、空っぽのコップのようなものだと考えることができるでしょう。空のコップには、なんでも充分に満たすことができます。これに対して、大人はと申しますと、すでになにかで満たされてしまっているコップのようなものです。そこに何かを注ごうとしても、既に入っているモノが邪魔をして、十分に満たすことができません。無理に注いでも、混ざってしまいます。そのように譬えて言うなら、私たちは神の恵みを受けるにあたって、既に満たされてしまっているコップのような者になっているのではないでしようか?。

 

それは、たとえば、自分の経験であったり、社会的な地位や立場であったり、固定観念化したものの考えかたや価値観であったり、人生に対する教訓や戒めであったり、その他もろもろの事柄によって、実は私たちの魂のコップは、既に満たされてしまっているのではないでしょうか。そして、だから、神の恵みを素直に、それこそ「幼子のように」受け入れることができなくなってしまっているのではないでしょうか?。すると「幼子のようになる」とは、私たちの魂のコップを空にすることだと言って良いでしょう。フランスの童話作家・サンテグジュペリの「星の王子様」の中に、キツネが王子様に「本当に大切なものは目には見えないんだよ」と語る場面があります。そして大人になると、それがわからなくなって、見えるものだけを大事にするようになると言うのです。それと同じように、私たちの神に対するまなざしは、魂のコップは、いつも空っぽの状態であり続けているでしょうか?。それとも、なにか他のものによって、既に満たされてしまっていることはないでしょうか?。

 

 「(6)まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください」。もし私たち一人びとりが、この祈りに真実に生き始めるなら、私たちは、いや、私たちこそ、神の御前に「幼子のように」生き始める幸いを、主の御手から与えられているのです。魂のコップが既になにかで満たされていたとしても、それをかなぐり捨てて、空っぽにして、神の恵みを、御子イエス・キリストの十字架と復活による、罪の赦しと永遠の生命を、豊かに戴くことができる者とされるのです。つまり、今朝の御言葉における幸いな祝福された幼子たちとは(もちろん、主イエスの膝に抱かれて祝福を受けた幼子たちもそうですけれども)何よりも、私たち一人びとりのことなのです。あなたこそ、神の御前に一人の幼子とされた人なのだ。神の国に入る人なのだ。天に国籍を持つ人なのだ。私の弟子とされた人なのだ。そのように主は、はっきりと、私たち一人びとりに眼差しをお向けになって、語っていて下さるのであります。

 

 まさにそのために、あなたが、神の御前に、一人の、祝福された、神の国に入れる幼子であるために、私は十字架にかかって、あなたの全ての罪を贖ったのだと、主ははっきりと語っていて下さる。だから、あなたは、親のもとにいる幼子が何も心配する必要がないように、なにも心配する必要がないのだ。私がいつも、永遠までも、あなたと共にいて、あなたを贖うからだと、主ははっきりと、語り告げていて下さるのです。その私の十字架による贖いの恵みの前に、あなたもまた、魂のコップを空にできるではないか。「心の貧しい人たちはさいわいである。天国は彼らのものである」まさにこの御言葉に示された「幸いな人たち」の中に、あなたも数えられているではないか。そのように主は、十字架と復活の恵みによって、私たち一人びとりにいま、はっきりと語り告げていて下さるのです。

 

「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。(17)はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。私たちはいま、主イエスの幼子とされている。御国の民とされているのです。祈りましょう。