説    教             イザヤ書5314節 ルカ福音書183134

                「十字架の予告」 ルカ福音書講解〔171

                  2023・06・18(説教23252017)

 

 「(31)イエスは十二弟子を呼び寄せて言われた、「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子について預言者たちがしるしたことは、すべて成就するであろう。(32)人の子は異邦人に引きわたされ、あざけられ、はずかしめを受け、つばきをかけられ、(33)また、むち打たれてから、ついに殺され、そして三日目によみがえるであろう」。(34)弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。この言葉が彼らに隠されていたので、イエスの言われた事が理解できなかった」。

 

 ここには、とても深刻な場面が記されています。ある日のこと、主イエスは十二弟子たちを「呼び寄せて」言われますには「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子について預言者たちがしるしたことは、すべて成就するであろう。(32)人の子は異邦人に引きわたされ、あざけられ、はずかしめを受け、つばきをかけられ、(33)また、むち打たれてから、ついに殺され、そして三日目によみがえるであろう」と、こう言われたわけです。これは、最初の十字架の予告でした。聴いた弟子たちは、この時の様子と御言葉とを、生涯忘れることはできなかったと思います。なぜなら、弟子たちは非常に驚いたからです。

 

 もともと弟子たちは、主イエスがエルサレムに行かれるのは、そこで政界に旗揚げをなさって、イスラエルの王になるからだと信じていました。だからこそ、ペテロなどは28節において主イエスに「ごらんなさい、わたしたちは自分のものを捨てて、あなたに従いました」と申したのです。つまり、先生がエルサレムで王様になったその暁には、私たちを(私を)大臣に取り立てて下さいませと申したのです。だからご覧なさい、私たちはいっさいを捨ててあなたにお従いしているのですよと、念を押したわけであります。いわば弟子たちにとって主イエスは「このかたについて行けば必ず出世できる」という保証のようなものでした。

 

 ところがあらんことか、その、出世の保証人(だと弟子たちが思っていた)主イエスの御口から、恐ろしい十字架の予告がなされたわけです。それは、主イエスがエルサレムに行くのは、イスラエルの王になるためなどではなく、旧約の預言者たちが語ったように「人の子」つまりメシア=キリストとして、人々の罪を背負って、全ての人の救いのたのために、十字架にかかって死ぬためであると、そのようにはっきりとお語りになったわけです。しかもそれは、人々から嘲られ、罵られ、辱めを受け、鞭打たれ、ついには殺されることだと言われたのです。これは全く縁起でもない言葉でした。ですから、聴いた弟子たちはただ困惑するほかなかったのです。事実として今朝の34節を見ますと「(34)弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。この言葉が彼らに隠されていたので、イエスの言われた事が理解できなかった」と記されています。

 

 この34節で大切なのは「この言葉が彼らに隠されていたので」とあることです。私たち人間は、心身はもとより、存在の深みまでも罪に染まっており、本質において神に敵対し罪に親しんでいる者たちですから、神の言葉と神の御意思が理解できないのは当然なのです。むしろ、この時の弟子たちが思い描いていたのは、輝かしい自分たちの未来予想図のみでした。「イエスさまに従って行きさえすれば輝かしい未来が保証されている」この思いだけが、弟子たちの心を支配していたのです。ようするに、弟子たちが信じていたものは、罪と死からの贖い主なる神の子イエス・キリストではなく、イスラエルの王になるべき人間ナザレのイエスにすぎませんでした。さらに言うなら、弟子たちは自分の心に勝手に思い描いていた未来予想図を信じていたにすぎなかったのです。

 

 十字架は、現代でこそ、女性たちのアクセサリーにもなっているものですけれども、主イエスの時代のユダヤにおいては、まことに恐ろしく、忌まわしく、呪われた罪人の処刑道具にすぎませんでした。当時のユダヤにおいて「それを言っちゃあおしまいよ」という、最終的な呪いの言葉がありました。それは「おまえなんか十字架にかけられてしまえ」という言葉でした。全ての人間関係が、決定的かつ最終的に破綻するほどのすさまじい呪いの言葉、それが「おまえなんか十字架にかけられてしまえ」だったのです。それはまさに最後通牒的な言葉でした。

 

 それならば、まさにその、すさまじい最終的かつ決定的な呪いの、処刑の道具でしかなかった十字架に、神の御子、主イエス・キリストは、私たちの罪の贖いと救いのために、みずからおかかり下さったかたなのです。なぜでしょうか?。それは、まさに私たちを支配している罪こそ、すさまじい最終的かつ決定的な呪いそのものだからです。自分をも、他者をも、滅びへと引きずり込まねばやまない、悪魔の支配そのものが罪の本質だからです。しかも、私たち人間は、そのような自分の罪さえも全く認識できずにいる、まことに哀れな存在なのです。つまり私たち人間は、知らず知らずのうちに罪の軍門に下っている存在なのです。

 

 このことを使徒パウロは、ローマ書310節において「義人はいない、一人もいない」という言葉であらわしています。文語訳で言うなら「義人なし、一人だになし」です。この「なし=いない」とは、罪が(悪魔が)私たち人類に突き付けている最後通牒です。どうだ、おまえたちの中には、ただの一人だって神に義とされる者はいないだろう。つまり、全ての人間は例外なく罪の内に滅びるほかないのだ。人生は無意味であり、人間存在は偶然性の申し子にすぎないのだ。それが人間なのだと、罪は(悪魔は)私たちに最後通牒を突きつけているわけです。まさにその、悪魔の最後通牒を逆手にとって、使徒パウロは、ローマ書の続く321節において宣言します。「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによって証されて、現わされた。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである」と。十字架の主イエス・キリストによる絶対的かつ永遠の勝利宣言こそ、聖書が私たちに語り告げている福音の本質なのです。

 

 今朝、併せてお読みした旧約聖書イザヤ書531節に、なんと記されていたでしょうか。「(1)だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか」と記されていたのです。この「だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか」というのは「あの呪いの十字架が、喜びに満ちた救いの徴になるということを、誰が信じえたであろうか」という意味です。そして続く「主の腕は、だれにあらわれたか」とは、まさに全ての人の救いのため、まさにあなたの救いのために、神の子イエス・キリストは、あの呪いの十字架にかかって、あなたの罪を永遠に贖って下さり、あなたに救いと永遠の生命を与えて下さったかただ、という意味であります。

 

 それは、先ほどのローマ書321節が宣言しているとおりです。「(21)しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによって証されて、現わされた。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである」。

 

 なぜ、主イエスは弟子たちに、しかも事柄を全く理解しようとしていなかった弟子たちに、十字架の予告をなさったのでしょうか?。それは、弟子たちの信仰告白を求めたもうたからです。イスラエルの王になるべき人間イエスに対する思いではなく、まさに全人類と歴史そのものの救いのために、あのゴルゴタの十字架を背負いたもう、十字架の主イエス・キリストに対する信仰告白を、主イエスはお求めになっておられるのです。それならば、それは単に十二弟子たちだけに向けられた問いなのではなく、なによりも、今ここに集うている私たち一人びとりに対して、主がみずからお問いになっておられることです。

 

 あなたは、あなたの身代わりとなって、私があのゴルゴタの呪いの十字架にかかったことを信じるかと、主は私たち一人びとりに問うておられるのです。あなたは、私があなたのために、あの十字架で死んだことによって、永遠の救いを与えられたことを信じるかと、問うておられるのです。この、主イエスからの問いに対して、私たちは、福音書の別の場面におけるペテロの信仰告白をもって、お答えしたいと心から思う者たちであります。すなわちマタイ伝1616節の御言葉です。「(16)シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。祈りましょう。