説    教              ヨブ記4210節  ルカ福音書182830

                「わが宝も奪らば取りね」 ルカ福音書講解〔170

                  2023・06・011(説教23242016)

 

 「(28)ペテロが言った、「ごらんなさい、わたしたちは自分のものを捨てて、あなたに従いました」。(29)イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、(30)必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」。

 

 宗教改革者マルティン・ルターが作詞作曲した有名な讃美歌がございます。私たちの讃美歌では267番に収録されています。その4節にこういう歌詞があります。「わが命も、わが宝も、奪らば取りね、神の国は、なお我にあり」。この「わが命も、わが宝も」とあるところは、実は戦前の古い讃美歌では「わが命も、わが妻子も」となっていました。それが、いかにも女性蔑視的だ、民主主義の日本に相応しくない、そういう理由で「わが宝も」に替えられたのです。

 

 しかし、ルター自身が作詞した元々の「神はわがやぐら」では、ドイツ語ですが、たしかに「わが妻や子も」となっています。そして現在もドイツの教会ではその古い歌詞のままで歌われているのです。“Meine Frau oder mein Kind”となっています。それこそがかけがえのない「わが宝」だと言うのです。ですから、これは決して女性蔑視的な歌詞などではなく、むしろその反対だと言わねばなりません。

 

 さて、今朝のルカ伝1828節以下において、十二弟子を代表してペテロが立ち上がって主イエスに申しますには「ごらんなさい、わたしたちは自分のものを捨てて、あなたに従いました」と、そう申したわけです。この「自分のもの」の中に、それこそ「わが妻や子も」含まれていたかもしれません。事実、ペテロやアンデレやヤコブやヨハネといった弟子たちは、ガリラヤ湖の漁師でありました時に主イエスから「私に従って来なさい」と言われて、直ちに網も舟も家も、全てを捨てて主イエスにお従いした人たちでした。他の弟子たちもそれぞれ、境遇の違いこそありますが、似たような犠牲を払って主イエスにお従いした人たちでした。

 

 ですから、あの富める青年がその財産のゆえに主イエスにお従いすることを断念したとき、弟子たちは「私たちは全てを捨てて主イエスにお従いしたのに」という気持であったに違いありません。事実として、今朝の28節のペテロの言葉には、あの富める青年に対する非難めいた思いが含まれていたのではないでしょうか。いわば28節のペテロの言葉は、十二弟子たち全てに共通する自負心の表明でした。そういうことをまず踏まえた上で、私たちは続く29節以下に記された主イエスの御言葉に心を留めたいと思うのです。

 

 「(29)イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、(30)必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」。ここでいきなり、私自身のとある思い出話になりますけれども、私は実家の両親の反対を押し切って神学校に入った者です。昔流にいえば、勘当されて神学校に入りました。あるドイツ人の神学者にそのことを話しましたら、彼は非常に驚いて、ヨーロッパではありえないことだと言われました。私は、決して自意識過剰な人間ではないつもりですけれども、自分が文字どおり家を捨て勘当されてまで献身したことについて、やはり今朝のペテロのような気持があったことは事実でした。

 

 しかし、そのような私の心を打ち砕くある出来事がありました。それは、私が牧師になって、結婚をいたしまして、妻の母、皆さんもよくご存じの福島照子ですが、彼女はずいぶん長いあいだ青山教会の長老を務めていました。あるとき、教会の掃除機を寄付してくれたのです。それは新しいもので、しかも最高級の掃除機でした。私は福島照子に「お義母さん、普通は家で古くなったものを教会に献品する人が多いのに、あなたは最新のものをわざわざ買って、教会に献げて下さったのですね」と申しました。私にしてみれば、経済的にも豊かではなかった義母の行為を褒めたつもりでした。

 

 ところが福島照子は、私の言葉を聞いて、急に機嫌が悪くなったのです。そして私に申しますには「神さまの御業のために献品するのですから、新しいものを、最も良いものを、お献げするのは当然ではありませんか?」。私は二の句が継げませんでした。自分が恥ずかしくなりました。そしてはっきりと思ったことは、わかったことは、ああ、ここにも全てを献げて主にお従いしている人がいるということでした。家を捨て、職を投げうち、あらゆる犠牲を払って、神学校に行くことだけが献身なのではないということでした。それがはっきりわかった経験でした。

 

 主イエスは愛する弟子たちに、否、私たち一人びとりに告げておられます。「(29)イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、(30)必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」と。これは、牧師だけのために語られた言葉ではないのです。勘当されて神学校に入った者だけに語られた言葉ではないのです。そうではなくて、主イエスのこの29,30節の御言葉は、ここに集うている私たち全てに対して語られた祝福の約束なのです。そのことを正しく理解することが、今朝の御言葉を正しく読み解くことなのです。

 

 ここで大切なのは、主イエスが「だれでも神の国のために…」とお語りになっておられることです。この「神の国のために」とは「神の御用にお仕えするために」という意味の言葉です。たとえそれが、人の目にはどんなに小さな奉仕のわざでありましても、神の御用のために、主の教会にお仕えするために、主にお従いする者として、献げられるわざは、神ご自身が御手にしっかりと受け止め、祝福して、それを豊かに用いて下さるのです。それが新しい掃除機であっても、礼拝を整えるための奉仕のわざであっても、長老・執事としての働きであっても、主ははっきりと約束して下さいます。「よく聞いておくがよい。だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、(30)必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」と。

 

 この「捨てる」とは「神の永遠の御国において豊かに受けるため」です。ですからこの「捨てる」とは、最も豊かに用いて戴くために、神の御用のためにお献げすることです。ある年に、湘南国際村で、日本中の高齢施設の施設長が集まって、セミナーが開かれたことがありました。私はそこに、朝の礼拝の説教を依頼されて行きました。そこで私は、今朝のこのルカ伝の御言葉をもとに「たとえどんなに徒労に見えるわざであっても、神のために献げられた全ての奉仕を、なによりも神ご自身が、この世においても、御国においても、豊かに報いて下さる」とお話ししました。

 

私の説教が終わったとき、一人の、たしか九州の高齢者ホームの施設長をしていたかたが、私のところに来て「今日の先生の説教で、本当に慰めを与えられました」と語って下さいました。そのかたによれば、福祉関係者は、特にキリスト者は、この世での報いを求めてはならない、という思いがあったそうです。「しかし、そうではないのですね、この世でも、御国でも、神は奉仕のわざに豊かに報いて下さるのですね。本当にありがとうございました」と言われたのです。このかたとの出会いと言葉によって、むしろ私が大きな慰めを与えられたことでした。

 

 教会のための奉仕のわざは非常に多岐にわたります。そして、教会といえども、さまざまな思いや背景を持った人間の集まりですから、時として、とても難しい課題に直面させられることもあります。人間としての想像を超えた出来事の、さらに3倍ぐらい想像を超えた困難に出遭うのが教会なのです。そのような経験をするたびに、本当に、それは徒労なのではないかと、報われないわざなのではないかと、思うこともしばしばなのです。

 

 しかし、主は、そうではないよと、はっきりと語って下さるのです。私たちが、あなたが「神の国のために」すなわち、神の御用にお仕えするために、献げた全ての奉仕のわざは、労苦の数々は、神ご自身が限りなく豊かな報いを与えて下さるものなのだ。すなわち「(30)必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」と、主みずからはっきりと語っていて下さるのです。

 

 だから「わが宝も奪らば取りね」と、私たちもまた、あのルターの歌詞に心を合わせて歌う幸いを与えられているのです。「わが妻も子も奪らば取りね、神の国はなお我にあり」と。そこに、私たち主の弟子たちとされた者の、限りない幸いと喜びがあり、自由と平安があり、日々の慰めと力があることを覚える者であります。祈りましょう。