説    教           民数記111617節  ルカ福音書182427

                  「神は為したもう」ルカ福音書講解〔169

                  2023・06・04(説教23232015)

 

 「(24)イエスは彼の様子を見て言われた、「財産のある者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう。(25)富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。(26)これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われることができるのですか」と尋ねると、(27)イエスは言われた、「人にはできない事も、神にはできる」。

 

 たとえ聖書についてよく知らない人でも、「ラクダが針の穴を通るほうが、もっとやさしい」という、今朝の25節の主イエスの言葉を、聞いたことがあるという人は少なくないのではないでしょうか。主イエスがおられた当時のユダヤのエルサレムに、文字どおり「針の穴」という狭い通路が(路地が)あったのです。

 

ラクダは後ろから見ますとずいぶんお腹が張った動物です。だからその「針の穴」と名付けられた狭い路地を、ラクダが通ることはとても困難でした。というより、ほとんど不可能であったようです。だから人々は、ラクダを連れてそこを通るよりも、わざわざ遠回りをして別の道を行くことを選んだのでした。そういうことから、いつしか不可能な事柄を言いあらわすときに「ラクダが針の穴を通るほうが、もっとやさしい」と言うようになったのです。

 

 たくさんの財産を持っていた青年が、主イエスにお従いすること(主イエスの弟子になること)を諦めて立ち去ったとき、主イエスは今朝の24節にありますように「(24)財産のある者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう。(25)富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」とおっしゃって、彼の後姿を祝福なさったのでした。それは、今は彼は私のもとを立ち去って行くけれども、またいつか、必ず戻ってくるに違いないということが、主イエスにはわかっておられたからだと思います。

 

 牧師として、教会の牧会をしておりますと、そういうことがよくあるのです。「洗礼を受けませんか?」と勧めたときに「いえいえ、私などはまだまだ」と断った人も、必ずいつの日にか、自ら進んで「先生、私は洗礼を受けたいのですが」と申し出てくる日が来るに違いない。そのような希望的観測のもとに立って、御言葉を語り続けるということが牧師にはよくあります。というよりも、牧会というのは、ほとんどそういうわざの連続だと申して良いでしょう。たとえ結果がいますぐに現れなくても、神が良しとしたもう時に、かならずその人は洗礼を願うようになるに違いない。あるいは、いまはこういう困った問題がこの教会にあるけれども、神はその試練を通して私たちに悔改めと導きをお与えになり、よりいっそう神の民として相応しい歩みをする群れへと成長させて下さるに違いない。いわばそのような、御言葉に基づく希望的観測のもとに日々の牧会のわざがあるわけです。

 

 ところが主イエスの十二弟子たちには、そういうことがよくわかっていなかったのでしょう、いますぐに結果が表れなければダメだ、いますぐに御言葉に対する応答がなければその人は救われない、そのように弟子たちは考えていたようです。人間は自動販売機ではないのですから、すぐに結果が現れないのはむしろ当然なのではないでしょうか。ですから弟子たちが主イエスに向かって「それでは、だれが救われることができるのですか」と訊ねたとき、主イエスは27節に「人にはできない事も、神にはできる」とお答えになったのです。これは弟子たちの頑なな心を、御言葉によって打ち砕いて下さるためでした。

 

 ここで「人にはできない事も、神にはできる」と訳された元々のギリシヤ語の言葉は、直訳するなら「人には不可能なことを為したもうのが神の御業である」という意味になります。「人には不可能なことを為したもうのが神の御業である」。宗教改革者マルティン・ルターが訳したドイツ語の聖書を見ますと、この「人には不可能なことを」というところに“dennoch(にもかかわらず)という言葉が入っています。つまりルターは「人には不可能なことを、それにもかかわらず、為したもうのが神の御業である」と訳しているわけです。これは元のヘブライ語に最も忠実な翻訳であると私は思います。

 

 主イエスの弟子とされた者たちでさえ、この大切なことがわからなかったのですから、私たちはなおさらではないでしょうか。「人には不可能なことを、それにもかかわらず、為したもうのが神の御業である」。これがわかるということが、神を信じることなのです。神を信じるというのは、この宇宙のどこかに神様がおられるんだということを信じることではありません。あるいはまた、哲学的な意味で神の存在を認めるということでもありません。そうではなくて、神を信じるということは「人には不可能なことを、それにもかかわらず、為したもうのが神の御業である」この事実に対して私たちが「アーメン」と応答することです。この「アーメン」とは「しかあれかし」という意味のヘブライ語です。天使ガブリエルから受胎告知を受けたマリアのように「御言葉どおり、この身になりますように」とお応えすることです。それが私たちの神への信仰なのです。

 

 先日、私は神学生時代に読んでいた本の整理をしていまして、その中に、カール・バルトの弟子の一人であったEberhard Jüngelが書いた“Gottes Sein ist im Werden(神の存在は生成の中にある=神の存在はWerdenに現れている)という本があるのを見つけまして、久しぶりに読み返していました。どのページにも真っ黒に、当時の私による線や書き込みがありました。ここでJüngelが語っておりますことは、神は私たちを救うために、御自身と等しい御子イエス・キリストを、十字架において、全ての人の罪の贖いとしてお献げ下さったかたである、ということです。言い換えるなら、絶対に救われる可能性のない私たちを罪から贖い、救うために、神は御子イエス・キリストの十字架において、御自身を啓示して下さったおかたなのだということです。

 

 それこそが、今朝の御言葉において主イエスが私たちにお語りになって下さった「人にはできない事も、神にはできる」の意味なのです。もしそれをドイツ語で言うなら“Gottes Sein ist im Werden”になるのです。神は針の穴にラクダを通らせて下さるかたなのです。「人にはできないことも、神にはできる」と断言して下さるかたなのです。なによりも、そのように断言して下さった主イエス・キリスト御自身が、私たちの恐ろしい罪を一身に担って、あのゴルゴタの呪いの十字架におかかり下さって、私たちのために罪の贖いと救いを成し遂げて下さったのです。絶対に不可能なことが、私たち罪人の救いと永遠の生命が、十字架の主イエス・キリストによって、実現したのです。だから私たちは、あのマリアのように、この神の御業に対して「アーメン。御言葉どおり、この身になりますように」とお応えする以外にないのです。それが私たちの信仰であり「私は神を信じます」ということなのです。

 

 民数記の1116節以下にこうございました。「(16)主はモーセに言われた、「イスラエルの長老たちのうち、民の長老となり、つかさとなるべきことを、あなたが知っている者七十人をわたしのもとに集め、会見の幕屋に連れてきて、そこにあなたと共に立たせなさい。(17)わたしは下って、その所で、あなたと語り、またわたしはあなたの上にある霊を、彼らにも分け与えるであろう。彼らはあなたと共に、民の重荷を負い、あなたが、ただひとりで、それを負うことのないようにするであろう」。ここにも、不可能を可能として下さる神の御業が現れています。牧会上の困難に突き当たり、絶望するモーセに対して、神は70人の長老を備えて下さって「彼らはあなたと共に、民の重荷を負い、あなたが、ただひとりで、それを負うことのないようにするであろう」と約束して下さいました。

 

 私たちが神を信じるということは、そういうことなのです。「人にはできない事も、神にはできる」。「人には不可能なことを、それにもかかわらず、為したもうのが神の御業である」。このことを信じて、アーメンとお応えして、復活の主と共に、主の恵みと導きと祝福のもと、心を高く上げて歩み続けてゆく、そこに私たちキリスト者の日々の歩みがあり、幸いがあり、自由と平安があるのです。祈りましょう。