説    教             イザヤ書3215節  使徒行伝214

                  「聖霊なる神の御業」ペンテコステ

                  2023・05・28(説教23222014)

 

 「(1)五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、(2)突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。(3)また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。(4)すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した」。

 

 ペンテコステの主日礼拝を迎えました。ペンテコステというのは新約聖書の原文であるギリシヤ語から派生したラテン語で「50日目」という意味です。今朝の1節の「五旬節」というのがペンテコステの訳語になります。それは、主イエス・キリストの復活から数えて50日目という意味です。主イエス・キリストは復活なさったあと、40日間弟子たちと共にお過ごしになりましたが、そのとき、御自身が父なる神と共に天からお遣わしになる聖霊によって「いつまでもあなたがたと共にいる」とお約束になりました。まさにその、主のお約束の成就した出来事が、今朝の使徒行伝21節以下に記されているわけです。

 

 そこで、今朝の御言葉の1節を見ますと「五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると」とあります。それは、主が弟子たちに「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい」(使徒行伝14)とお命じになったように、弟子たちは毎日(おそらくは最後の晩餐が行われたマルコの家の二階座敷で)集まってひたすら祈り続けていたのです。実はそのとき、弟子たちには、大きな恐れと不安がありました。それは、復活された主は40日目に天に帰って行かれたので、弟子たちは地上に、つまり歴史的現実のただ中に、ポツンと取り残されたように感じたからです。いわば弟子たちは孤立無援の状態でした。

 

 ところがある日、それこそ主イエスの復活から50日目、そして御昇天から10日目の出来事なのですが、2節にありますように「(2)突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。(3)また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった」のでした。聖霊は元のギリシヤ語では「霊」を意味する「プネウマ」という言葉であらわされます。そしてその「プネウマ」には「風」という意味もあるのです。

 

風は目には見えませんが、ものすごい力を持っています。このピスガ台は風の強いところですけれども、ある年の台風の際に、大きな桜の木が根元から倒されたことがございました。マルコの家の二階座敷でひたすらに祈っていた弟子たちのもとに、主が約束された聖霊が降ったとき、弟子たちもまた神の恵みの確かさによって古きおのれを打ち倒して頂いたのです。だからこそ「激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった」のです。つまり、それまでの、怖れと不安によって満たされていた弟子たちが打ち倒されて、新しい者たちとされたのです。主の真の弟子たちとされたのです。それこそ救いの出来事そのものでした。だからそこに、主の教会が建てられました。私たち葉山教会は来年(2024)で設立100周年を迎えるのですが、実は神学的に厳密かつ正しく申しますなら、2023年前のエルサレムで起こった、あのペンテコステの出来事に起源を持つのです。

 

 そして今朝の御言葉の4節にはなんと書いてあったでしょうか?「(4)すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した」とありました。事実として、ペンテコステの出来事、聖霊降臨の出来事によって設立された全世界の教会は、2023年後の現在も、全世界において「いろいろの他国の言葉」で福音を宣べ伝えているのです。銀座の教文館の洋書売場の、聖書のコーナーに行ってごらんなさいませ。50ぐらいの言葉の聖書が売られています。それどころではありません、現在、聖書は約500の言語に翻訳されているのです。まさにペンテコステの出来事によって建てられた主の教会は「聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した」のです。

 

 私が、洗礼志願者のための教理の学びなどで、よく言うことがございます。それは「聖霊はキリストの現在形です」ということです。私はこの表現を4世紀の教父アタナシウスの「聖霊論」という著作から学びました。幸いなことに、これはPhilip Schaffによる優れた英語訳がありますのでラテン語ができなくても読むことができます(私はラテン語も読めますが…)。そこでアタナシウスが語っていることは、復活の主イエス・キリストは、聖霊によって、私たちの歴史的現実のただ中に、救いの御業を行っておられるのだという事実です。だからこそ、その事実を知った弟子たちは、恐れと不安から解放されて、神の恵みによって打ち倒されて、喜びと平安と確信に満たされて、全世界に福音を宣べ伝える主の弟子「使徒」とされたのです。

 

 つまり、ここに集うている私たち一人びとりもまた、聖霊によって現臨しておられる復活の主イエス・キリストにお目にかかっているのです。主が聖霊によって現在形であられるから、私たちはいま、この歴史的現実のただ中で、十字架と復活の主イエス・キリストによる救いの御業にあずかる者とされているのです。その事実を知り、その事実の中に、復活の主に向かって心を高く上げて生き始めることこそ、私たちがペンテコステ礼拝を献げることの大きな意味なのです。弟子たちは知ったのです、自分たちが少しも孤立無援などではないことを。十字架と復活の主が、聖霊によっていつも共にいて下さることを。まさに聖霊は、復活の主イエス・キリストの現在形であられるからです。

 

 今朝、あわせてお読みした旧約聖書・イザヤ書3215節の御言葉をも心に留めましょう。(15)しかし、ついには霊が上から、われわれの上にそそがれて、荒野は良き畑となり、良き畑は林のごとく見られるようになる」。この御言葉は、日本最初の教会である横浜基督公会(今日の横浜海岸教会)の中庭にある「開教記念碑」に刻まれているものです(それは漢文で刻まれています)1872(明治5)1月に、植村正久、井深梶之助、押川方義、熊野雄七、本多庸一、篠崎桂之助、山本秀煌ら11人の青年たちがJames Hamilton Ballagh宣教師から洗礼を受け、そこに日本最初のプロテスタント教会「横浜基督公会」が設立されたのです。それが、私たちの葉山教会の直接的なルーツです。

 

 この御言葉で大切なのは「ついに」と訳されたヘブライ語です。これは単に過去の出来事だけを表しているのてはありません。そうではなく、むしろ現在の出来事、そしてやがて起こるべき出来事をあらわしているのです。私たち葉山教会に連なる一人びとりにも、復活の主は聖霊によって現臨していて下さいます。そして荒野が美しい田園に変えられるように、さらには美しい森へと成長するように、私たちもまた、いや、私たちこそ、神の栄光をあらわす群れとして、聖霊の導きのもとに歩み続けてゆく者たちとされているのです。そのことを喜び感謝し、聖霊によって現臨氏たもう主イエス・キリストに仕える群れとして、現在形のキリストにお仕えする弟子たち、使徒たちとして、歩み続けて参りたいと思います。祈りましょう。