説    教             ハバクク書24節 ルカ福音書181823

                  「来りて我に従え」ルカ福音書〔168

                  2023・05・21(説教23212013)

 

 「(18)また、ある役人がイエスに尋ねた、「よき師よ、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。(19)イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。(20)いましめはあなたの知っているとおりである、『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証を立てるな、父と母とを敬え』」。(21)すると彼は言った、「それらのことはみな、小さい時から守っております」。(22)イエスはこれを聞いて言われた、「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。(23)彼はこの言葉を聞いて非常に悲しんだ。大金持であったからである」。

 

 それは非常に感動的な光景でした。ある日のこと、主イエスが弟子たちと共にエルサレムへの道を歩いておられますと、突然、一人の青年が主イエスの前に膝まづぃて「よき師よ、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」と申したのでした。それこそ真剣に、主イエスに対して自分の疑問を投げかけたわけであります。18節を見ますと、この青年は「ある役人」であったと記されています。この「役人」というのは「公の務めを身に負うている人」という意味ですから、社会的な地位もあり、責任もあり、立派な職業もあり、おそらく学識もあったであろう、そういう青年であったということがわかるのです。

 

 そこで、彼が主イエスに投げかけた「よき師よ、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」というこの質問は、言い換えるなら「私が救いを得るためには何が必要なのでしょうか?」という問いであったと言うことができます。ユダヤの人々にとって「永遠の生命」は「神による真の救い」と同義語でした。つまり、この青年は単に不老不死を願ったのではなくて、永遠なる神の御国に迎え入れられる人間になるために、いったい何が必要なのでしょうかと主イエスに尋ねたわけであります。それこそ真剣な問いであり、まことに感動的な光景でした。

 

 ところが、彼のこの真剣な問いに対して、主イエスは「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない」とお答えになった。何やら威勢を削がれたように彼は感じたかもしれません。しかし、そうではなく、主イエスのこのお言葉の意味はこうでした。「神の他に“良き者”と呼ばれるに値するかたはおられない。あなたは私のことを“よき師よ”と呼んだが、あなたは私が神と等しい者であると信じてそう言っているのか?」。つまり、主イエスはなによりも、この青年の信仰を問いたもうたのです。「あなたは本当に私のことを、神の子・キリストであると信じて、その質問を投げかけているのか?」と主イエスはお問いになっておられるのです。それが19節の御言葉の意味なのです。

 

 もし真剣さが、人間にとって、救いの絶対的条件であるなら、この青年は文句なしに合格でしたでしょう。あるいは、もしも修行の厳しさが救いの条件であったとしても、彼は合格したのではないでしょうか。しかし、主イエスは御自分に対する信仰告白をこの青年に、そして私たち一人びとりにお問いになるのです。去る33日に、皆さんもご存じのように、雨宮義弘さんがホスピスの病室において病床洗礼を受けられました。そのとき、私が雨宮さんに質問した言葉はたったひと言でした。「あなたは主イエス・キリストを、あなたの救い主であると信じますか?」。この問いに対して雨宮さんは頷いてお答えになりました。つまり、それだけが救いの絶対的な、唯一の条件なのです。「あなたは主イエス・キリストを、あなたの救い主であると信じますか?」この問いに対して「はい信じます」と答えることです。だからそれは、私たち人間にとっての究極的な言葉です。ドイツの神学者パウル・アルトハウスの言葉で申しますなら“Das letztige Wort(最終的な言葉)です。あなたを救いに導く言葉です。それをいま、あなたは持っているかと、主イエスは私たちに問うておられるのです。

 

 今朝、併せてお読みした旧約聖書のハバクク書24節は、使徒パウロによってローマ書117節に引用されているものです。「見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる」。これをパウロは「信仰による義人は生きる」と訳し直しています。この世の中に「義人」と呼ばれうる人はたくさんいるかもしれない。道徳的に正しい人、日毎の行いの清い人、他者から尊敬される人、豊富な人生経験を持っている人、優れた指導力や統率力を持っている人、様々なことを良く知っている人、そういう人はたくさんいるかもしれない。しかし、誰が“Das letztige Wort”を、すなわち「生命の言葉」を持っているだろうかと、主イエスは私たち一人びとりに問うておられるのです。

 

 そして大切なことは、その「生命の言葉」とは何かと申しますなら、それは神の御言葉そのものでありたもう主イエス・キリストなのです。だからこそ「あなたは主イエス・キリストを、あなたの救い主であると信じますか?」この問いに対して「はい信じます」と答えることが最も大切なのです。

 

今朝の御言葉の20節以下を読みましょう。「(20)いましめはあなたの知っているとおりである、『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証を立てるな、父と母とを敬え』」。(21)すると彼は言った、「それらのことはみな、小さい時から守っております」。(22)イエスはこれを聞いて言われた、「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。(23)彼はこの言葉を聞いて非常に悲しんだ。大金持であったからである」。主イエスはこの青年を信仰のふるいにかけられるのです。彼から非本来的なものをそぎ落として、最も大切な「生命の言葉」を求める者に生まれ変わらせようとしておられるのです。そのために、彼が幼い頃から守り続けてきた律法の道徳を列挙なさり、それを改めて守るべきことをお教えになるのです。ですからこれは逆説的な導きの仕方です。

 

主は彼に言われました「(20)いましめはあなたの知っているとおりである、『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証を立てるな、父と母とを敬え』」。(21)すると彼は言った、「それらのことはみな、小さい時から守っております」。主イエスはこの答えを待っておられました。つまり、幼い頃からずっと守り続けてきたことではあなたは救われないのだ、ということをこの青年にわからせるための逆説的な問いだったわけです。そして主イエスは彼にこう言われました、今朝の22節です。「(22)イエスはこれを聞いて言われた、「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。

 

 この御言葉で大切なことは「そして、わたしに従ってきなさい」という言葉です。この青年が主イエスに従うにあたって、もし彼のその決意を、足を、止めさせているものがあるなら、つまり、生命の言葉に聴き従い得なくさせているものがあるなら、それらを全て捨ててでも、私に従って来なさいと、主イエスは彼にはっきりとお告げになったのです。なぜでしょうか?。ただ信仰による義人のみが救われるからです。「私は主イエス・キリストをわが主、救い主であると信じます」これが、私たちにとっての“Das letztige Wort”だからです。

 

もしあなたが、あと5分で確実に死ぬとわかったなら、あなたはその5分を、いったいどのように用いるでしょうか?。たとえ莫大な富を所有していたとしても、その5分においては何の意味もありません。意味を持つ「生命の言葉」は、私たちを限りなく愛し、私たちのために、私たちの罪の赦しと贖いのために、そして私たちを救って御国の民とするために、十字架にかかって死んで下さった神の子イエス・キリストを信ずる信仰のみなのではないでしょうか。もっと言うなら、その十字架と復活の主イエス・キリストのみが私たちを救う唯一の“Das letztige Wort”なのです。だから、私たちはどのような境遇にありましても、貧しくても、富んでいても、健康であっても、病気の身でありましても、その“Das letztige Wort”に生き続ける僕であり続けようではありませんか。

 

私たちは、この青年のように「悲しんで立ち去る」者であってはならないのです。その逆です。私たちはどこまでも、十字架と復活の主イエス・キリストに固着する者たちとして、主の御手に自分を明け渡す者として、生きて参りたいと思います。キリストから離れてて悲しんで立ち去る者ではなく、喜び勇んでキリストに従う者として、新しい一週間も信仰の旅路を歩んで参りたいと思います。祈りましょう。