説    教              詩篇315節  ルカ福音書181517

                  「幼子と主イエス」ルカ福音書〔167

                  2023・05・14(説教23202012)

 

 「(15)イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちはそれを見て、彼らをたしなめた。(16)するとイエスは幼な子らを呼び寄せて言われた、「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である。(17)よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。

 

 先週の「パリサイ人と取税人の祈り」の御言葉に引き続いて、今朝のこのルカ伝1815節以下の御言葉もまた、一見わかりやすそうでいて、実は決して「わかりやすい」ものではございません。出来事としてはごく単純な出来事でした。心温まるエピソードと言っても良いかもしれません。「イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた」とき、弟子たちがそれを窘めたと言うのです。ようするに「イエスさまは忙しいかたなのだから、そんなにたくさんの幼子を連れて来られたら困る」と言ったわけですね。弟子たちにしてみれば、お忙しい主イエスのためを思って言った言葉でした。

 

 ところが主イエスは、そのような弟子たちの言葉と態度を、逆に窘めたもうたのです。そして幼い子供たちをご自分のもとに呼び寄せて、祝福されて言われますには「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である」。もちろん幼子の親たちは大喜びだったことでしょうし、窘められた弟子たちは憮然としていたかもしれません。いずれにしても、出来事として見るならば、これはまことに心温まる出来事であり、主イエスというかたの優しいお人柄をあらわすエピソードであるとも言えるのではないでしょうか。

 

 事実として、私たちは今朝のこの御言葉を、主イエス・キリストの御人格の優しさを示すものだと理解するのと共に「主イエスは子供がお好きだった」というような形で納得し、わかったような気がしていることが多いのではないでしょうか。たとえば、日曜学校の礼拝などでもそのような説教がなされることがよくあります。「ほらご覧なさい、イエスさまというかたは子供を大切にして下さった。だから日曜学校を休まずに礼拝に出席しましょう」というような形の話がよくなされるわけであります。

 

 それは、決して間違いではありません。いわば「イエスさまは子供が大好き」というような文脈から、今朝の御言葉を読み解くこともできるわけです。しかし、それでけでは、今朝の御言葉の17節が理解できなくなるのではないでしょうか。「(17)よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。ここでは、主イエスのまなざしと御言葉は一転して、私たち一人びとりに向けられています。つまり「イエスさまは子供が大好き」という文脈においては、私たちは単なる傍観者の立場でいたわけですけれども、17節においては一転して、私たち一人びとりに厳しい御言葉が向けられているわけです。このことを、私たちはしっかりと読み取らなくてはなりません。

 

 「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である。(17)よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。つまり、主イエスは私たちに対してこう語っておられるのです。「この幼子たちは神の国に入ることができる。しかし、あなたたちは、これらの幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできないのだ」。これが厳しい御言葉でなくして、何が厳しいと言うのでしょうか。今朝の御言葉は「心温まるエピソード」を私たちに物語る以上に、私たち一人びとりに対して、福音に基づく新しい生をさし示すものなのです。

 

 主イエスは「だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」と言われました。では、この御言葉の意味はいったい何でしょうか?。そもそも「幼な子のように神の国を受けいれる」とはどういうことなのでしょうか?。この御言葉の意味を解く鍵は、実は今朝あわせてお読みした旧約聖書の詩篇315節にあります。「(5)わたしは、わが魂をみ手にゆだねます。主、まことの神よ、あなたはわたしをあがなわれました」。お気づきになったかたもあるかと思いますが、実はこれは、主イエスの十字架上の言葉でもあるのです。それはこのルカ伝2346節に出てくる言葉です。「(46)そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた」。

 

 幼子とは、コップに例えて言うなら、空っぽのコップのようなものだと考えることができるでしょう。空のコップには、なんでも充分に満たすことができます。これに対して、大人は、既になにかで満たされてしまっているコップのようなものです。そこに何かを注ごうとしても、既に入っている液体が邪魔をして、十分に満たすことができません。譬えて言うなら、私たちは神の恵みを受けるにあたって、既に満たされてしまったコップのような者になっているのではないでしようか?。

 

それは、たとえば、自分の経験であったり、社会的な地位や立場であったり、固定観念化したものの考え方や価値観であったり、人生に対する教訓や戒めであったり、その他もろもろの事柄によって、実は私たちの魂のコップは、既に満たされてしまっているのではないでしょうか。そして、だから、神の恵みを素直に、それこそ「幼子のように」受け入れることができなくなってしまっているのではないでしょうか?。すると「幼子のようになる」とは、私たちの魂のコップを空にすることだと言って良いでしょう。サンテグジュペリの「星の王子様」の中に、キツネが王子様に「本当に大切なものは目には見えないんだよ」と語る場面があります。大人になると、それが見えなくなると言うのです。それと同じように、私たちの神に対するまなざしは、魂のコップは、いつも空っぽの状態であり続けているでしょうか?。それとも、本当に大切ではないものによって、満たされてしまっていることはないでしょうか?。

 

 「(5)わたしは、わが魂をみ手にゆだねます。主、まことの神よ、あなたはわたしをあがなわれました」。もし私たちがこの祈りに真実に生き始めるなら、私たちは、いや、私たちこそ、神の御前に「幼子のように」生き始める幸いを、主の御手から与えられているのです。魂のコップが既になにかで満たされていたとしても、それをすぐにかなぐり捨てて、神の恵みを、御子イエス・キリストの十字架と復活による、罪の赦しと永遠の生命を、豊かに戴くことができる者とされるのです。つまり、今朝の御言葉における幸いな祝福された幼子たちとは(もちろん、主イエスの膝に抱かれて祝福を受けた幼子たちもそうですけれども)何よりも、私たち一人びとりのことなのだと言わねばならないのです。あなたこそ、神の御前に一人の幼子とされた人なのだ。神の国に入る人なのだ。天に国籍を持つ人なのだ。私の弟子とされた人なのだ。そのように主は、はっきりと、私たち一人びとりに眼差しをお向けになって、語っていて下さるのであります。

 

 まさにそのために、あなたが、神の御前に一人の、祝福された、神の国に入れる幼子であるために、私は十字架にかかって、あなたの全ての罪を贖ったのだと、主ははっきりと語っていて下さるのです。だから、あなたは、親のもとにいる幼子が何も心配しないように、なにも心配する必要がないのだ。私がいつも、永遠までも、あなたと共にいるからだと、主ははっきりと語り告げていて下さるのです。その私の恵みの前に、あなたもまた、魂のコップを空にできるではないか。「心の貧しい人たちはさいわいである。天国は彼らのものである」まさにこの御言葉に示された「幸いな人たち」の中に、あなたもいるではないか。そのように主は、十字架と復活の恵みによって、私たち一人びとりに、いまはっきりと語り告げていて下さるのです。祈りましょう。