説    教            詩篇511617節  ルカ福音書18914

                 「神に義とされる人とは」ルカ福音書〔66

                  2023・05・07(説教2312011)

 

 「(9)自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。(10)「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。(11)パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。(12)わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。(13)ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。(14)あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。

 

 今朝のこの主イエスの譬話は「わかりやすい」と多くの人が感じるかもしれません。ある日のこと、宮すなわち神殿にパリサイ人と取税人が祈りのためにやって来たのでした。パリサイ人はたいへん傲慢な男で、自分が取税人のような罪深い人間ではないことを神に感謝したのに対して、取税人のほうはと申しますと、彼は「目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら」悔改めの祈りを神に献げたのでした。

 

私たちはこれを一読して、ある意味、胸のすくような爽快感を味わうのではないでしょうか。ちょうど、勧善懲悪ものの時代劇を見るのと同じような、一種のカタルシスを感じるのではないでしょうか。そのようにして私たちは心の内に思うのです。「神さま、私はこのパリサイ人のような傲慢な人間でないことを感謝します」と。これはようするに、このパリサイ人が取税人を蔑んで祈ったのと同じような祈りを、私たちもまた、しばしばしているわけです。今朝のこの主イエスの譬話は、決して「わかりやすい話」などではないのです。

 

 古代イスラエルにおいて、パリサイ人というのは、民衆から非常に尊敬されていた人たちでした。ですから、今朝のこの主イエスの譬話を聞いた人たちの多くは、拍手喝采を心の内に叫ぶどころか、むしろ「これは酷い話だ」と思ったに違いないのです。反対に、取税人というのは、当時のユダヤの人々から蛇蝎のごとくに嫌われ蔑まれていた存在でした。ですから今朝の御言葉の最後の14節で主イエスが「あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった」とお語りになったことは、まさに当時のユダヤの人々にとって、驚くべき言葉以外の何物でもなかったのです。

 

 人々はみな思ったことでした。「主イエスというかたは、なんて驚くべきことをおっしゃるのだろうか」と。それは逆に申しますなら「パリサイ人ではなく取税人が神に義とされることなどありえないことだ」という根深い価値判断があったことを示しています。まずそのことを心に置いて頂いた上で、今朝のこの譬話を丁寧に読み解いて参りたいと思うのです。

 

 まず、パリサイ人の祈りの内容に、嘘や偽りがあったわけではありません。どうぞ11節をご覧ください。「(11)パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。(12)わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』」。これらは全て、本当のことでした。それに、このパリサイ人は間違ったことを語ったわけでもありません。たとえば私たちの身に当てはめてみれば良いのです。私たちのうち、どれだけの人がこのパリサイ人のように「全収入の十分の一をささげて」いるでしょうか?。以前は「十一献金」という言葉がよく聞かれたものです。もしもその精神を、現在の私たちが失ってしまっているとすれば、それこそ悔改めるべきことなのではないでしょうか。

 

 さて、このパリサイ人の、あたかも鉄壁のような正しい祈り(義人の祈り)に対して、もう一方の取税人はどうであったかと申しますと、今朝の13節にございましたように「(13)ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と」祈ったのでした。この「遠く離れて立ち」というのは、彼が神殿の聖所に近づくことができなかったことを示しています。つまり、この取税人は、自分が神の御前に立つに相応しくない人間であること、むしろ、神の御前に立ちえざる者であることを、明確に告白しているわけです。だからこそ「遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら」祈ったのでした。

 

 そして、この取税人の祈りの言葉は、たったひと言でした。それは「神様、罪人のわたしをおゆるしください」というものでした。これも、常識的には考えられないことでした。主イエスからこの譬話を聞いた多くの人たちは「ああ、やっぱり取税人はそういう祈りしかできないんだな」と思ったに違いないのです。少なくとも、肯定的・好意的に受け止めた人はいなかったと思います。「パリサイ人は立派な祈りをした。それに対してこの取税人は…」という、否定的な見方であったと思うのです。

 

では、この取税人は、どうしてそのような祈りしかできなかったのでしょうか?。その理由は、彼は自分が神の御前に罪人であり、立ちえざる者であることを、御言葉によって深く自覚していたからに違いありません。ですから、彼はパリサイ人の祈りを全く批判していません。もし批判するとすれば、それは神の御前に立ちえざる、罪人のかしらなる自分の姿以外にはありえなかったからです。つまり、この取税人は、神の御言葉によって(神の恵みによって)自分が神の御赦しを受けるに値せぬ罪人であることを心の底から自覚していた人でした。だから、この人には比較の対象などなかったのです。自分が罪人のかしらなのですから、比較の対象などあるはずがないのです。つまり、他者と比較して、自分はどの程度罪深いか、という問題ではなくて、自分こそ、神の御前に立ちえざる罪人そのものだからです。

 

 だからこそ、彼の祈りは「神様、罪人のわたしをおゆるしください」という、たったひと言の祈りとならざるをえませんでした。それは言い換えるなら、他との比較の対象を持たない、ただ神にのみ向けられた真実なる祈りでした。私たちも、同じなのではないでしょうか。私たちも、いや、私たちこそ、神に対して「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と祈るほかない者なのではないでしょうか。逆に言うなら、この単純にして真実の祈りに立つとき、私たちの信仰生活もまた、他者との比較におけるものであることをやめて、ただ主なる神にのみ向かう信仰生活となりうるのではないでしょうか。それこそ十分の一献金も、断食も、神の喜びたもう献げものとして感謝して献げつつ、そこでこそ「神様、罪人のわたしをおゆるしください」との祈りに健やかに立つ僕とならせて頂けるのではないでしょうか。

 

 主イエス・キリストは、戸惑い、驚きながらこの譬話を聴く全ての人々に語りたまいます。今朝の14節です。「(14)あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。どうぞご注意ください、主が言われた「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」とは、ただ神に対する信仰の姿勢において、という意味です。他者との比較においてということではありません。パリサイ人は、神に対して他者と自分とを比較して誇りました。しかし取税人は、自分が赦されざる罪人のかしらであることを御言葉によって知りつつ、ただ神の慈しみの御手に自分の全てを投げかけたのです。

 

 私たちはいま、どちらの祈りに生きる者たちなのでしょうか?。私たちは、私たちこそ、今朝の取税人の祈りに生きる人々であり続ける幸いを、神の御手から戴いているのです。そのことを喜び、感謝しつつ、詩篇5116,17節をお読みして終わりましょう。「(16)あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげても、あなたは喜ばれないでしょう。(17)神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」。祈りましょう。