説    教              詩篇8812節  ルカ福音書1818

                「人の子の来臨」ルカ福音書講解〔165

                2023・04・30(説教23182010)

 

 「(1)また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。(2)「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。(3)ところが、その同じ町にひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願いつづけた。(4)彼はしばらくの間きき入れないでいたが、そののち、心のうちで考えた、『わたしは神をも恐れず、人を人とも思わないが、(5)このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そうしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるだろう』」。(6)そこで主は言われた、「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。(7)まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。(8)あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。

 

 主イエスの時代のイスラエルのある町に「神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた」というのです。この人は裁判官の立場でありながら、正しい裁きをしようなどという気持ちは全くなく、ただ目先の利益と立身出世だけを考えていた、悪い人物でした。この酷い裁判官のもとに、一人の貧しいやもめがやって来て「『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願い続けた」のです。これは、この酷い裁判官にとっては、利益にならない訴えです。当然、聞き入れることなく、彼女の訴えを放っておいたのですが、あまりにしつこくやって来て訴え続けるものですから、ようやく重い腰を上げざるをえなくなりました。今朝の4節以下をご覧ください。「(4)彼はしばらくの間きき入れないでいたが、そののち、心のうちで考えた、『わたしは神をも恐れず、人を人とも思わないが、(5)このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そうしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるだろう』」。

 

 主イエスというかたは、本当に人情の機微に触れる、意外な譬話をなさるかたです。すなわち、主はこの酷い裁判官のことを例に挙げつつ、私たちにこのようにお教えになるのです。今朝の6節以下です。「(6)そこで主は言われた、「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。(7)まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。(8)あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。ところで、今日のこの御言葉の冒頭の1節には「(1)また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた」。とございました。私たちに主なる神が求めておられること、それは「失望せずに常に祈ること」だと言われているのです。

 

 私は高校2年生の時に洗礼を受けたのですが、あるとき、町の古書店で古い聖書を買いました。文語訳の聖書です。その中に、たぶん戦前の教会(聖公会の教会)のものだったのでしょう、藁半紙に謄写版で印刷された古い週報が挟まっていました。そして、そこにはこのように書いてありました。「君がたとえ、どんなに無意味だと感じても、辛いと思っても、疲れていても、雨の日にも、風の日にも、雪の日にも、とにかく毎週日曜日には、絶対に休まず礼拝に出席するのだと決心して、それを実行したまえ。そうすれば君の人生はかならず勝利の人生となる」。高校生の私はそれを読んで感動しました。当時の私は、そういう言葉との出会いが無くても礼拝を休むことはなかったのですが、とにかく、偶然に目にしたこの言葉は私にとって大きな励ましになったのでした。

 

 私たちはえてして、祈ること、すなわち、最も大切な教会生活において、礼拝において、不熱心であることが少なくないのではないでしょうか?。私たちは肉体を養うための毎日の3度の食事には気を使っても、魂の糧である「祈りの生活」においては、えてして驚くほどいい加減であり、不熱心であり、なにかにかこつけて休もうとする、あるいは、休むことを正当化しようとする、そういう性質を持っているのではないでしょうか。これは、私が30年以上前に、当時おりました東京の教会で経験したことなのですが、服部さんという、当時すでに80代後半の女性の教会員がおられました。彼女はなんと毎週日曜日のたびに、横須賀の馬堀海岸から2時間半かけて東京の教会に通ってきていた人です。あるとき、たしか3月のことでしたが、東京には珍しいほどの大雪が降りました。40センチぐらい積もったのです。たしか1988年のことです。

 

 私はその日、朝早くから、教会の前の道路の雪かきをしていて、こんな大雪だから今日は礼拝への出席者は少ないだろうな、特に、横須賀の馬堀海岸から来られる服部さんは、今日はお休みに違いないなと、そんなことを思っていました。そういたしましたら、なんといつもと同じ時刻に、服部さんが雪のなかを歩いて教会に来られたのです。私はびっくりしまして、服部さんにこう申しました。「服部さん、こんなに大雪の日に、よく礼拝に来られましたね」。すると服部さんは私にこう言われたのです。「まあ牧師先生、なんてことをおっしゃいますか。教会員たるもの、たとえ雪が降ろうが矢が降ろうが、礼拝に出席するのは当然のことでございます」。私はもう、ただひたすらに恐縮するばかりでした。服部さんの息子さんは立教大学で原子物理学を教えておられたのですが、お母さまの葬儀のとき、挨拶の中でこうおっしゃっていたことがいまでも印象に残っています。「母は本当に、キリストへの信仰ひとすじに生きた人でした。母の人生は、主の教会に結ばれたキリスト者としての、勝利の人生でした」。

 

 私たち一人びとりもまた、いま、今朝の主の御言葉によって改めて問われているのではないでしょうか?。「あなたは、祈りの生活、礼拝者の生活においてこそ、『失望せずに常に祈る』人になっているか?」と。悪い裁判官でさえ、やもめの訴えがあまりにもしつこいので、その訴えを聞き入れて、有利な判決をしてやろうと動くではないか。それならばなおのこと、あなたを限りなく愛し、あなたのために最愛の独子イエス・キリストをさえ賜ったあなたの神は、なおさら「日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか」。そして主は、今朝の8節においてこのように言われました。「(8)あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。

 

 私たちは、この8節の最後の御言葉に心を留めたいと思います。「しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。どうぞ、気を付けて下さい。新約聖書において「人の子」と言うのはもちろん、主イエス・キリストのことをさしているのですけれども、もうひとつ、とても大切な事実があります。それは、新約聖書において「人の子」という言葉が用いられるとき、それは常に「十字架の主イエス・キリスト」をさし示しているのだということです。ですから8節の主イエスの御言葉を読み解くならこうなるのです。「しかし、私が全ての人の罪の贖いのために十字架にかかるとき、この世界のどこに、本物の信仰が見られるであろうか」。つまり、主なる神は今朝のこのルカ伝181節から8節の御言葉を通して、私たち一人びとりに、十字架の主イエス・キリストに対する真の信仰を問うておられるのです。

 

 先程紹介いたしました、私が高校節のときに、たまたま古書店で入手した古い聖書の中に挟んであった、古い教会の週報に書いてあった言葉を、もう一度引用して終わりたいと思います。「君がたとえ、どんなに無意味だと感じても、辛いと思っても、疲れていても、雨の日にも、風の日にも、雪の日にも、とにかく毎週日曜日には、絶対に休まず礼拝に出席するのだと決心して、それを実行したまえ。そうすれば君の人生はかならず勝利の人生となる」。祈りましょう。