説    教               創世記1926節  ルカ福音書173137

                  「失いて得るもの」ルカ福音書講解〔164

                 2023・04・23(説教23172009)

 

 「(31)その日には、屋上にいる者は、自分の持ち物が家の中にあっても、取りにおりるな。畑にいる者も同じように、あとへもどるな。(32)ロトの妻のことを思い出しなさい。(33)自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである。(34)あなたがたに言っておく。その夜、ふたりの男が一つ寝床にいるならば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう。(35)ふたりの女が一緒にうすをひいているならば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう。〔(36)ふたりの男が畑におれば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう〕」。(37)弟子たちは「主よ、それはどこであるのですか」と尋ねた。するとイエスは言われた、「死体のある所には、またはげたかが集まるものである」。

 

 今朝の主イエスの御言葉はたいへん厳しいものです。「(31)その日には、屋上にいる者は、自分の持ち物が家の中にあっても、取りにおりるな。畑にいる者も同じように、あとへもどるな。(32)ロトの妻のことを思い出しなさい。(33)自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」と主は私たちに言われました。ここで印象的なのは「ロトの妻のことを思い出しなさい」とあることです。モーセの弟であったロトの妻は、ソドムとゴモラが神の御怒りによって滅亡したその日、後ろを振り返って見たために塩の柱になったことが創世記1926節に記されています。私はかつてイスラエルの死海のほとりで「ロトの妻」と呼ばれる岩を見たことがありますが、それは高さ15メートルもある大きな岩でした。ああ、ロトの妻はすごい巨人だったのだなと私は思いました。

 

 それはさておき、問題は、どうしてロトの妻は後ろを振り返ったのかということです。たぶん、ソドムとゴモラには、自分の大切な家があったからではないでしょうか。家があれば、そこには当然、家財や財産もあるはずです。それらを取りに戻りたいと思ったのではないでしょうか。あるいは、それが無理だとしても、せめて後ろを振り返って、一瞬でも豊かで満ち足りていた過去の生活の思い出に浸りたいと願ったのではないでしょうか。しかし、それは主なる神によって禁止されていたことでした。

 

ということは、いったいどういうことなのでしょうか?。私たち人間は誰でも、物事に対する執着心を持っています。特に、それが自分が苦労して長年積み上げてきた物だったり、安定した生活の基盤だったりするなら、それらに対して執着心が(あるいは愛情が)生じるのはごく自然な成り行きではないでしょうか。仏教では物事に対する執着心は煩悩の現れであるとして退けられますが、キリスト教ではむしろ、豊かで安定した生活の中にも神の祝福の御手の働きを見ます。ですからマックス・ヴェーバーの「プロテスタント教会の倫理と資本主義の精神」にも著されているように、特に私たち改革長老教会においては、生活上の豊かさ()を否定的には捉えません。むしろ、それをいかに神の栄光のために用いるか、そこに私たち個々のキリスト者の「召命=Beruf」があると考えます。(ちなみに、マックス・ヴェーバーも明らかにしているように、Berufを最初に職業を意味する言葉として用いたのはルターでした。それはドイツ語で「神から与えられた使命」を意味します。ですからそこに貧富貴賎の差はなく、全ての人は神の前に平等であると理解されます。まさにそこに近代資本主義社会の根本原理を見出したのがヴェーバーでした)

 

 話を元に戻しましょう。ロトの妻はなぜ塩の柱になってしまったのでしょうか?。その答えは実は、今朝の御言葉の31節に示されているのです。「(31)その日には、屋上にいる者は、自分の持ち物が家の中にあっても、取りにおりるな。畑にいる者も同じように、あとへもどるな」。10年ほど前のことです、ある飛行機事故の時に、燃えている機内から脱出する際に、自分の大きな手荷物を持ったり抱えたりしたまま飛行機から降りようとした乗客が何人もいたために、逃げ遅れた数名の人が犠牲になったということがありました。例えて言うなら、それと似たことがソドムとゴモラの滅亡においても起こったのでした。あの12年前の東日本大震災の時にも「津波てんでんこ」という言葉が改めて想起されたことでした。この「津波てんでんこ」とは、自分の、または家族の、友人の、隣人の、生命を守り救うために、なにも持たずにとにかくすぐに避難しなさい、後ろを振り返ってはならない、ということでした。

 

 それは、信仰生活において、さらに申しますなら、私たち人間の全人格的な救いにおいてこそ、忘れてはいけないことなのではないでしょうか?。実際に、日常の生活において、私たちは様々な重荷を背負っています。義理人情やしがらみが、様々な足枷が絡みついています。しかし、主イエスはまさにそのような私たちに言われました。「手を鋤にかけてから後ろを振り返る人は、神の国にふさわしくない」と。手を鋤にかけたのなら、一心不乱に畑を耕しなさいと主イエスは私たちに言われたのです。茶道の世界でもそれと同じことが言われます。茶道具を扱うときにはそのことだけに集中しなさい。茶筌を振るときにはそのことだけに集中しなさい。お茶をお出しするときにはそのことだけに集中しなさい。しかし、その当たり前のことが難しいのです。私たちはいつも「後ろを振り返って」しまうのではないでしょうか。

 

 では、私たちにとっての「津波てんでんこ」とは、いったい何でしょうか?。私は、それは、十字架と復活の主イエス・キリストに対する集中であると思います。まさにその「キリストへの集中」こそが、今朝の御言葉を読み解く上での要であると思います。カール・バルトの言葉で言いますなら“Christliche Konzentration” (キリスト論的集中)です。今日はこの礼拝の後で年に一度の定期教会総会があります。教会総会とはいったいどういう教会会議なのか?。私はその意味はまさに「キリスト論的集中」にあると思います。私たちがいつも、どなたを、何を、中心とした教会形成に励んでいる群れなのかを改めて問い直し、もしも間違った方向に向かっている部分があったのなら、その間違いを修正してキリストのほうに正しく向き直るための教会会議、それが教会総会であると思うのです。ですから、あまり知られていないと思いますが、ドイツ語では教会総会のことを“Generalversammlung die Kirche für Christus”と言います。それは直訳するなら「教会員たちがキリストのために集まる会議」です。

 

 私たちはいつも(それは教会総会に限りません) Generalversammlung die Kirche für Christusつまり「キリストのために集まる私たち」になっているでしょうか?。そのような信仰の姿勢において、いつも「後ろを振り返らない」私たちであり続けているでしょうか?。そのことがいつでも、どこでも、主によって問われているのではないでしょうか?。もし私たちにその「キリストへの集中」(キリスト論的集中)が無いのなら、欠けているなら、私たちもまたロトの妻のように、生命なき塩の柱にならざるをえないのではないでしょうか。それはどんなに大きくて立派に見えたとしても、聖霊の働きたまわない死せる共同体にすぎません。逆に、たとえ私たちが人間的には、社会的には、どんなに小さく見える群れでありましょうとも、そこに「キリストへの集中」(神の言葉への集中)が生き生きと現れているならば、私たちは常に「聖霊の宮」とされたまことの教会、キリストの御身体なる真の教会として、歩み続けてゆくことができるのであります。

 

 今朝の27節に、主イエスはいささか諧謔的な譬を語っておられます。「(37)弟子たちは「主よ、それはどこであるのですか」と尋ねた。するとイエスは言われた、「死体のある所には、またはげたかが集まるものである」。これは、悪い意味だけではありません。なによりも私たちは、第二コリント書215節に心を留めましょう。「(15)わたしたちは、救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するキリストのかおりである」。もし私たちが「キリストへの集中」に健やかに生き続け、神の御言葉に健やかに立つ群れであり続けるなら、キリストの香りが、救われた者たちの喜びと感謝と自由の香りが、この湘南の地に、広く香り放たれてゆくに違いありません。いま、私たちはその信仰の志においてこそ、いっそう健やかな群れであり続けたいと思います。ただ主にのみ栄光がありますように。祈りましょう。