説    教           創世記191920節  ルカ福音書172230

                  「主の御言葉に従う」ルカ福音書講解〔163

                 2023・04・16(説教23162008)

 

 「(22)それから弟子たちに言われた、「あなたがたは、人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時が来るであろう。(23)人々はあなたがたに、『見よ、あそこに』『見よ、ここに』と言うだろう。しかし、そちらへ行くな、彼らのあとを追うな。(24)いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。(25)しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。(26)そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう。(27)ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。(28)ロトの時にも同じようなことが起った。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、(29)ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。(30)人の子が現れる日も、ちょうどそれと同様であろう」。

 

 今朝の主イエスの御言葉はなにやら物々しく、不気味な響きさえ感じられるものです。ここには「天空を閃き渡る稲妻」「大洪水」「火と硫黄」といった、いわば壊滅的かつ終末論的な天変地異の様子が描かれています。東日本大震災や阪神淡路大震災の時のことを思い起こされたかたもあるかもしれません。そして22節を見ますと「あなたがたは、人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時が来るであろう」と語られています。これは、大きな苦しみや悲しみの中で、主イエスにお会いしたいと願っても果たせない、お会いできない、という意味の言葉です。そして続く23節には「人々はあなたがたに、『見よ、あそこに』『見よ、ここに』と言うだろう。しかし、そちらへ行くな、彼らのあとを追うな」と記されています。

 

 つまり、私たち人間は、大きな苦しみや悲しみに遭遇したとき、自分を支えてくれるものを求めるのですが、そのような私たちの心の叫びを見透かしたかのように、自分こそキリストである、救い主であると、自称する輩が現れる、それに気をつけなさいと主イエスは語っておられるのです。「見ろ、あそこにキリストがいる」と言われても「そちらへ行くな、彼らのあとを追うな」と、主イエスは私たちを戒めておいでになるのです。

 

 それでは、私たちは、大きな苦しみや悲しみに遭遇したとき、どこに行けば、どのようにしたら、キリストにお会いすることができるのでしょうか?。今朝の御言葉は、まさにその最も大切なことを私たちに明確に語り告げているものです。それは25節に「(25)しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。(26)そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう」と主が語っておられることです。これはなにかと申しますと、私たちは今までずっとルカ伝を丁寧に読み学んできたわけですけれども、今朝のこの1725節に至って初めて、主イエスご自身の御口から十字架の予告がなされているのです。主イエスみずからはっきりと弟子たちに「私は十字架にかけられ、死んで墓に葬られる。しかし私がキリストであることを、ノアの時代の人々がそうであったように、現代の人々も信じようとせず、皆が「食い、飲み、めとり、とつぎなど」するであろうと語られるのです。また、ロトの時代の人々がそうであったように、現代の人々もまたキリストを信じようとはせず「食い、飲み、買い、売り、植え、建てなど」するであろうと言われるのです。

 

 私たち人間にとって、人生の本当の問題は(つまり、私たち人間にとって、何が本当に大切な本質的なものであり、なにが不必要な非本質的なものであるか、ということは)そのような日常の生活ができなくなり、また、意味を持ちえなくなったときにこそ、明らかにされるのではないでしょうか?。たとえば、私たちが重い病気に罹って、手術や入院生活を余儀なくされることがあったといたしましょう。そのとき、私にも経験がございますが、手術や入院を余儀なくされるということは、日常生活の流れの中から外に出ること(あるいは強制的に外に出されること)なのです。そして、実はそのような「あらずもがなの経験」を通してこそ、私たちは初めて、人間にとって本当に必要かつ本質的なものが何であるかを知りうるのではないでしょうか。

 

 皆さんもご存じのように、去る33日に、雨宮義弘さんが、衣笠病院のホスピスにおいて病床洗礼を受けられました。それは洗礼を授けた私にとりましても大きな恵みの時であり経験でした。雨宮さんはそのとき、もう言葉を発することさえできない状態でした。私が病床洗礼(緊急洗礼)の手順に従って、たった一つの質問をいたしました。それは「あなたは、主イエス・キリストを、救い主と信じますか?」という質問です。この質問に対して、雨宮さんは全存在、全実存を傾けてお答えになりました。すなわち、雨宮さんは目を開かれて、微かに頷かれたのでした。それは、本当に立派な、この上ない信仰告白でした。繰返し申します。「あなたは、主イエス・キリストを、救い主と信じますか?」この問いに対して、雨宮さんは全存在、全実存を傾けて、立派なお答えをなさったのです。

 

 実はそこに、私たち全ての者たちにとって、最も大切な本質的なことが示されているのではないでしょうか?。雨宮さんは病床洗礼をお受けになって10日後の313日に天に召されました。ホスピスへの入院も本当に突然のことでした。その短い闘病生活の日々は、まさに今朝の御言葉に示されているように「天空を閃き渡る稲妻」「大洪水」「火と硫黄」それらを全部合わせたのと同じぐらいの苦しみの日々でもあったと思うのです。しかし、しかし、まさにその苦しみのただ中においてこそ、十字架と復活の主イエス・キリストは、いつも、どんな時にも、雨宮さんと共にいて下さり、彼の全身全霊を、恵みの御手によって支えていて下さったのです。決して誰かが「見よ、あそこにキリストがいる」とか「私がキリストだ」と言ったからではありません。そうではなくて、神の御言葉によってです。福音の御言葉によってです。御言葉と聖霊によって現臨して下さる主イエス・キリストが、雨宮さんに出会っていて下さったからです。だからこそ、人生において最も大切な、本質的な、無くてはならぬ事柄として、病床洗礼を望まれたのです。主イエス・キリスト御自身が、御自身とのそのような出会いを、そして洗礼の恵みを、与えて下さったのです。

 

 今朝のこの説教題を「主の御言葉に従う」といたしました。実は、私たちにはなかなか、このことができないのではないでしょうか?。主の御言葉ではなく、ややもすると自分の経験や考えを、つまり私たち自身を「主」として人生の中心に据えたがるのが私たちなのではないでしょうか。それならば、もし「天空を閃き渡る稲妻」「大洪水」「火と硫黄」といった天変地異が私たちに悔改めをもたらし、もっとも大切なことが何であるかに気付かせてくれるのなら、それらの天変地異さえも神の御手の内にある祝福の助けとなって働くものだと言えるのではないでしょうか。そこで、いちばん大切なことは、私たちがいつも「主の御言葉に従う者たち」であり続けることです。「あなたは、主イエス・キリストを、救い主と信じますか?」という最も大切な問いに対して、いつも繰返し「はい、信じます」と答える者たちであり続けることです。それ以上にまさって大切なことはないのです。

 

 主イエス・キリストは、今朝の御言葉の最後の30節において私たちに「(30)人の子が現れる日も、ちょうどそれと同様であろう」とお語りになりました。この「人の子」というのはもちろん主イエス・キリストのことです。これはどういうことを語っておられるかと言いますと「あなたの人生における最悪の日にも、あなたが死の陰の谷を歩くときにも、私は絶対にあなたを見捨てず、あなたと共にいて、あなたの全存在を堅く支え、あなたを祝福し、あなたを救い、永遠の生命を与える」と、主イエスは明確に私たち全ての者に語り告げていて下さっているのです。「あなたの人生における最悪の日にも、あなたが死の陰の谷を歩くときにも、私は絶対にあなたを見捨てず、あなたと共にいて、あなたの全存在を堅く支え、あなたを祝福し、あなたを救い、永遠の生命を与える」。この大いなる約束こそ、今朝のこの不思議な、暗く聞こえるルカ伝1722節以下の御言葉において、主がはっきりと語り告げていて下さることです。

 

 だからこそ、私たちは神から、御言葉に従うことを、いつも求められています。言い換えるなら、自分が人生の主であるとき、私たちは限りなく不確かであり、滅びるほかはない存在なのですけれども、私たちのために十字架におかかり下さり、墓から復活して下さった主イエス・キリストをいつも唯一のまことの「主」として生きるなら、私たちにもはや絶望は無く、「天空を閃き渡る稲妻」「大洪水」「火と硫黄」といったカタストロフィックな出来事さえも、むしろ永遠の生命への祝福となって働くものであることを、今朝の御言葉がはっきりと示しているわけです。祈りましょう。