説    教                創世記913節  ローマ書614

                      「永遠の生命の契約」復活日主日

                 2023・04・09(説教23152007)

 

 「(1)では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。(2)断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。(3)それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。(4)すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」。

 

 使徒パウロは当時のローマの教会の信徒たちに向けてこのように語り告げています。「(3)それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである」。まさにこの事実こそ、私たちが人生において知るべき最も大切なことだとパウロは熱く語り告げているのです。ここに「イエス・キリストにあずかる」という一見不思議な言葉が出てきます。新共同訳の聖書では「イエス・キリストにあやかる」と訳していますがなお十分ではありません。むしろこれは、もともとのギリシヤ語を直訳しますなら「イエス・キリストに縋りつく」という意味の言葉なのです。

 

 つまり、使徒パウロはこう語っているのです。「私たちは十字架と復活の主イエス・キリストに縋りつく者たちである。すなわち、私たちはキリストの死による罪の贖いと赦しの恵みと、キリストの復活という新しい生命の恵みに縋りつく者たちである」。そう考えてみますと、この「縋りつくこと」は「信仰」という言葉の意味にも通じるのではないでしょうか。信仰とは「信じて仰ぐ」と書きます。信じて仰ぐということは、逆に言うなら、私たちを救う私たち自身の中には無いのであって、それはただ十字架と復活の主イエス・キリストにのみあるのだ、ということが明らかにされているのです。だからこそ、私たちはその十字架と復活のキリストに、ただひたすらに縋りつく者たちとして、すなわち信仰者として、キリスト者として、いまここに呼び集められているのではないでしょうか。

 

 せっかく洗礼を受けたのに、最初の感激はいつの間にか消え失せ、自分は以前の自分とほとんど変わっていないのではないか、洗礼を受ける前と後と、それほど大きな変化はないのではないか、そのように語られる人が、実は少なくありません。皆さんの中にもそういう忸怩たる思いを抱いているかたがおられると思うのです。しかし、そういうかたは、どうか安心して戴きたいのです。キリスト教は、道徳的精神修養の宗教などではなく、十字架と復活の主イエス・キリストの恵みに縋りつく宗教なのです。だから、私たち自身の中に実感や確信や熱意があることが大事なのではなくて、信じて仰ぐかたのみが大事なのです。言い換えるなら、十字架と復活の主イエス・キリストの恵みに縋りつくことだけが大事なのです。

 

 カール・バルトというスイスの神学者は「信仰とは、結局はan,in,eisにかかっている」と語っています。ドイツ語で「私は神を信じる」というのを“Ich glaube an Gott.”と言います。英語では“I believe in God.”ギリシヤ語では“Πιστεύω εις τον Θεό”です。バルトが言う意味は、私たちの救いの根拠は少しも私たち自身の中には無いのてあって、それはただ神にのみあるのだということです。だから“Ich glaube Gott.”でも“I believe God.”でも“Πιστεύω τον Θεό”でもありえないのです。それこそバルトが語っているように「信仰とは、結局はan,in,eisにかかっている」のです。

 

 そういたしますと、最も大事なことは(つまり私たちの救いの根拠は)ただ主なる神の側にのみあるわけですから、そこで私たちが実感や確信や熱意を持つとか持たないとかいうことは全く問題にならないのです。大切なことは「信仰とは、結局はan,in,eisにかかっている」という事実だけなのです。今日は復活日主日(イースター)ですから、イースターの福音として申しますなら「キリストはあなたの救いのために復活された」という事実だけが大事なのです。あえてドイツ語で申しますなら“Christus ist auferstanden, um dich zu retten”という事実だけが大切なのです(ここにはanはありません。キリストの御業なのですから)

 

 今日のこの復活日主日の説教題を「永遠の生命の契約」といたしましたのも、この「救いの契約」の根拠がただ十字架と復活のイエス・キリストにのみあるからです。契約と聞きますと私たちは「相互契約」だと思いやすいのです。しかし聖書が語る「永遠の生命の契約」すなわち「全ての人を救う神の恵みの契約」は相互契約ではなく、神の側からの一方的な恵みの契約なのです。どういうことかと申しますと、私たちにはその契約を保持する資格も能力も無いのですけれども、ただ私たちの罪を一身に背負って十字架におかかり下さり、御自分の死によって私たちの罪を贖い、復活されて私たちに永遠の生命(救いと神の国の国籍)を与えて下さった主イエス・キリストの恵みによってのみ、その「永遠の生命の契約」は保持されているということです。

 

 だから、私たちはただひたすらに十字架と復活の主イエス・キリストの恵みに縋りつく以外にないのです。もっと言うなら、ただそれだけで良いのだということです。復活の主に縋りつくことそれ自体が救いなのです。そして主はご自分に縋りつく者に必ず永遠の生命を与えて下さるのです。そこに例外はないのです。キリストに無視される人は一人もいないのです。復活の主の恵みにあずかれない人は一人もいないのです。主イエス・キリストは必ず、その計り知れない恵みの御力によって、縋りつく者すべてに永遠の生命を(救いと神の国の国籍を)与えて下さいます。まさに主イエス・キリストは「あなたの救いのために復活された」のです。

 

 キリストが復活されたという事実の持つ、もうひとつの大きな恵みをご一緒に顧みて終わりましょう。それは、私たちはこの世界のどこにも「キリストの墓」を持たないのです。(私はエルサレムでキリストの墓に入りましたが、そこには一枚の真鍮のプレートにギリシヤ語でルカ伝236節の御言葉が刻まれていました。「汝らはなにゆえ生きておられるかたを死人の中に尋ねるや?主は甦りて、ここにはおられない」)。ということは、どういうことになるのでしょうか?キリストは過去のかたではなく、まさに現在形の救い主であられるという事実なのです。いま、まさに御言葉と聖霊によって現在形であられ、ここに現臨しておいでになる復活の主イエス・キリストの救いの御業に、恵みと祝福に、私たち全ての者たちがあずかる者とされている。縋りつく者たちとされている。それが、私たちが全世界の主にある人々と共にこのイースターを迎えることの大きな喜びであり意味なのです。

 

 イースターおめでとうございます。まことに主は、あなたの救いのために復活されたからです。祈りましょう。