説    教           イザヤ書5345節  ルカ福音書172021

                 「神の国の所在」 ルカ福音書講解〔162

                 2023・04・02(説教23142006)

 

 「(20)神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。(21)また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。今朝のこの御言葉は、聖書の御言葉の中でもとりわけ印象ぶかいものの一つではないでしょうか。あるパリサイ人が主イエスに「神の国はいつ来るのか」と質問したのです。それに対して主イエスは「「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」とお答えになったのでした。ある意味でこの答えは東洋的と申しますか、まるで禅問答のような哲学的な響きがあるように思います。

 

 ちょっと余談のようですが、昨日、牧師館の2階の窓から桜の花越しに海を眺めておりました時、ひとつのことに気が付かされました。それは、春の海は水平線が空に溶け込んでいて境目が見えなくなっているということです。つまり、海が空に続いており、空もまた海と一つになっているのです。水平線が、ホライズンが、無くなっているのですね。そこで、今朝の主イエスの御言葉にこれを重ね合わせて申しますなら、海は歴史、空は永遠を象徴するとして、その2つのものには水平線が無い、境界線というものが無い、つまりは、そういうことを主イエスはおっしゃっておられるのではないでしょうか。

 

 「神の国はいつ来るのか」これを主イエスに訊いたのがパリサイ人であったという事実はまことに象徴的です。と申しますのは、パリサイ人の「パリサイ」という言葉はもともと「分離された特別な者たち」という意味のペリシームというヘブライ語に由来しているように、彼らは自分たちこそ(否、自分たちだけが)神によって救われる特別な人間であると考えていたからです。彼らにとって神の国は、歴史とは本質的に次元が違うものでした。ようするにパリサイ人たちは、神の国を「遠く遥か彼方にあるもの」だと考えていたのです。だから、そこに行くためには、まず自分たちが律法を完全に守らなければならない。完全な人間にならなければならない。完璧な清さを体現しなければならない。言い換えるなら、神のような存在にならなければならない。そのようにして努力精進の結果、ごく少数の「分離された特別な者たち」だけがたどり着くことができるもの、それが神の国であると考えていたのです。

 

 この彼らに対して主イエスは「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」とお答えになられたのでした。「神の痛みの神学」の著者として世界的に有名な北森嘉蔵先生は「こういうのを“茶箪笥で爆弾が破裂するようなものだ”と言うのだよ」と言われましたが、まさに言い得て妙でありまして、意外性の極致がここにあるのです。つまり、パリサイ人たちは「神の国」を遥か彼方の、非常に高い所にあるものだと考えていたのに対して、主イエスは「いやそうではない、それはいま、あなたたちのただ中にあるではないか」と、まさに意外なお答えを(茶箪笥で爆弾が破裂したようなお答えを)なさっておられるわけです。讃美歌の276番はご存じのようにルターが作詞作曲したものですが、その4番に「わが命も、わが宝も、取らば取りね、神の国は、なお我にあり」とあります。これは「私の人生からなにが奪われようとも、神の国は私のただ中にあるのであって、その事実によって私は全てを満たされている」と歌っているわけです。

 

 話を元に戻しましょう。パリサイ人たちは、神の国ははるか遠くの、非常に高い所にあって、そこに行くためにはちょうど、階段を一段ずつ登って行くように、人間的な努力精進を積み重ねてゆかねばならないと考えました。そしてその努力精進を完璧になし終えたごく少数の「分離された特別な者たち」だけが神の国に入ることができるのだ、救いを得ることができるのだと考えたのです。これは、プラトンの言う「エロースの階段」(The ladder of Eros)と同じ考えかたです。そういたしますと、問題は、私たちはどうなるのかということです。パリサイ人だって、本当はどうなるのでしょうか?。使徒パウロはローマ書310節において「義人はいない、ひとりもいない」と明確に語っています。それは、エロースの階段を最終ステージまで上り詰めることができる人間は一人も存在しないということです。現実はその真逆でありまして、「全ての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている」(ローマ書312)のが私たち人間なのです。

 

 私たちの主イエス・キリストは、いと高き神の国に鎮座ましましたまま、動かないおかたではありません。つまり、エロースの階段の最終ステージにおられるおかたではないのです。そうではなくて、主イエス・キリストは、私たち全ての者たちと、この歴史全体を救うために、御父なる神のみもとを離れて、あのベツレヘムの馬小屋にお生まれ下さったおかたなのです。言い換えるなら、主イエス・キリストは、いと高き神の国に鎮座して私たちが登ってくるのを睥睨しておられるかたではなく、みずからが私たちの罪の最底辺(どん底)にまで降りて来て下さって、そこであの呪いの十字架を背負って、御自身の生命を献げて、私たちの罪の贖いとなって下さったかたなのです。まさにそれこそ北森先生の言われる「瓢箪から駒」ならぬ「茶箪笥から爆弾」ですね。

 

言い換えるなら、私たちの日常生活のただ中に、神の国が到来したのです。神の御子ご自身が、私たちのもとに訪れて下さったのです。「エロースの階段」を上り詰めるどころか、一段たりとも登りえない私たちのために、神の御子イエス・キリストみずから、私たちの罪の最底辺にまで降りて来て下さったのです。だから福音とは「救い無き者にも救いがある」というような生易しいものではないのです。むしろ「救い無き者にこそ救いがある」と告げるのが聖書が語る福音の本質なのです。どうしてでしょうか?。

 

 その最も大きな答えを示しているものが、今朝あわせてお読みした旧約聖書イザヤ書534節と5節の御言葉です。「(4)まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。(5)しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」。これは「苦難の僕の歌」と言われるイザヤ書の預言の一節でして、主イエス・キリストの十字架の出来事を宣べ伝えているのです。大切なことは、この4節に「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみを担った」とあることです。ここで「われわれの病」というのはキェルケゴールの語る「死に至る病」つまり神に対する私たちの罪のことであり、「われわれの悲しみ」とあるのは死と虚無と絶望のことをさしています。

 

 つまり、どういうことかと申しますと、神の御子イエス・キリストみずから、私たちの罪のどん底にまで降りて来て下さって、そこで私たちの罪の贖いのために、黙って、たったお一人で、あの呪いの十字架にかかって死んで下さった。そのキリストの十字架の死によってこそ、私たちは罪を贖われ、死と虚無と絶望から解放されて、救われた者の喜びと幸いをもって、真の自由に生きる者とされているではないか。いままさに、主イエス・キリストがあなたのために十字架におかかり下さったことによって、あなたのただ中にいま「神の国」が来ているではないか。そのようにはっきりと、今朝の御言葉は私たち一人びとりに語り告げているのです。

 

 私たちは今週の7日間を「受難週」として過ごします。私たちのただ中に「神の国」すなわち神の恵みによる永遠のご支配を実現して下さるために、主はあのベツレヘムの馬小屋に人となられ、十字架への道を歩まれ、ご自身の生命を献げて、私たちの罪の贖いを成し遂げて下さったのです。そして来週の日曜日、私たちは共々に喜びの復活節(イースター)の主日礼拝を迎えることになります。祈りましょう。