説    教           エレミヤ書1714節  ルカ福音書171119

                 「十人の癒し」 ルカ福音書講解〔161

                 2023・03・26(説教23132005)

 

 今朝の御言葉であるルカ伝1711節以下には、まずこのように記されています。「(11) イエスはエルサレムへ行かれるとき、サマリヤとガリラヤとの間を通られた。(12)そして、ある村にはいられると、十人のらい病人に出会われたが、彼らは遠くの方で立ちとどまり、(13)声を張りあげて、「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と言った」。それは、主イエスと弟子たちの一行がサマリヤとガリラヤの間にある「ある村」に入られたときのことでした。十人のらい病の患者たちが主イエスから遠く離れて立ち、そこで主イエスに向かって「イエスさま、私たちを憐れんで下さい」と叫んだのでした。

 

 なぜ彼らは、主イエスから遠く離れた場所に立って叫んだのでしょうか?。当時のユダヤ教の律法の規定によれば、らい病などの思い皮膚病に冒された人は、村や町のコミュニティーから完全に阻害された場所での生活を余儀なくされ、誰か他の人と会話をする場合でも、その人から遠く離れた場所に立って会話をすることを求められていたからです。(ドイツ語の聖書ではらい病患者のことをAussatzigeと訳しています)だから彼ら十人のらい病人たちも、主イエスから遠く離れた場所に立ち、大きな声で「イエスさま、私たちを憐れんで下さい(私たちを癒して下さい)」と訴えたのでした。

 

 どうぞ続く14節をご覧ください。「(14) イエスは彼らをごらんになって、「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」と言われた。そして、行く途中で彼らはきよめられた」と記されています。ここに「イエスは彼らをごらんになって」とございますが、これはただ彼らの様子を見た、観察したということではないのです。そうではなくて、主イエスは彼らのもとに近づいてきて下さり、彼らの身体に御手をお触れになり、彼らを祝福されて、そのうえで彼らに「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」とおっしゃったのです。

 

 驚いたのは彼ら十人のらい病人たちでした。まさか自分たちのところに近づいて来て下さり、手を触れて下さり、祝福して下さるかたがおられるとは、その時まで夢にも思っていなかったからです。しかも、彼らのその驚きさえ、まだ序の口にすぎませんでした。彼らが主イエスの御言葉のままに、祭司のところに行こうとしたその道の途中で、彼らは自分たちのらい病が完全に癒されていることを知ったからです。それは14節の終わりに「そして、行く途中で彼らはきよめられた」と記されているとおりです。

 

まさに驚くべき奇跡が、癒しの御業が、彼ら十人のらい病人の身に起こったのでした。そして本来ならば、人間的な常識に立って言うならば、今朝の御言葉はここで終わりであっても良かったのかもしれません。と申しますのは、彼ら十人のらい病人たちは主イエスに向かって、自分たちの病気の癒しを願ったのであり、それは驚くべき仕方で(主イエスがなさった奇跡の御業によって)実現したからです。この十人のらい病人たちの癒しの出来事を、たぶんこの村の多くの人たちが見ていたに違いないのです。そしてたぶん彼らも思ったことでしょう「ああ良かった、これで彼らの願いがかなえられた。主イエスというかたはなんてすごい神の子だろう」と。繰返して申しますが、人間的な常識に立って言うなら、今朝の御言葉は14節までで終わりです。言うなればハッピーエンドで全てが終わったはずなのです。

 

 どうぞ続く15節以下をご覧ください。「(15) そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、(16)イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった。(17)イエスは彼にむかって言われた、「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。(18)神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」。(19)それから、その人に言われた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」」。

 

 主イエスによって癒して頂いたのは十人でした。しかし、その十人の中から、神を讃美し、主イエスに感謝を献げるために帰ってきた人はたったの一人だけだったというのです。つまり、残りの九人にとっては14節のハッピーエンドまでで全てが終わっているのです。言い換えるなら、自分が願っていたことさえ叶えられればそれで十分だと言う人たちです。しかし一人だけ違う人がいました。この人は、自分が願っていたことさえ叶えられれば十分だとは考えませんでした。そうではなく、自分に与えられた癒しの出来事(救いの出来事)のゆえに、神を讃美し、主イエスに感謝を献げなければ済まないと考えた人です。

 

 今朝の御言葉が語っているように、なによりも主イエスご自身が言われたように「きよめられたのは、十人」でした。しかし、信仰とは、自分の身体に救いが(奇跡的な癒しが)起こったことを最終目標とするものではありません。そうではなく、信仰とは、神を讃美し、主イエスに感謝を献げるために帰ってくることです。他の九人の人々にとっては、癒しだけが全てでした。言い換えるなら、自分の願っていることが、自分の願い通りに実現することが全てでした。だから、その願いが実現したとき、彼らはそれで満足して、それぞれの自分の家に帰って行ったのでした。いわばこれは、自己実現を目的とする人生であると言えるでしょう。

 

 これに対して、神を讃美しながら主イエスのもとに戻ってきた一人は違いました。彼は、自分の身に起こった癒しが最終目的だとは考えませんでした。言い換えるなら、彼は自己実現をもって人生の目標とすることはできなかったのです。そうではなく、自分が癒されたのは神のなさった御業によるのだから、なんとしてでも神に讃美と感謝を献げずにはやまないと考えた人です。言い換えるなら、肉体の病気を癒されたのは十人全てに起こったことですが、魂の救いに与ったのはそのうちのたった一人だけでした。九人は肉体の癒しだけで満足しましたが、一人は神への讃美と感謝をあらわすために主イエスのもとに帰らなければ満足しませんでした。九人は自己実現だけが人生の目的でしたが、一人は神への讃美と感謝に生きることが人生の最大の喜びであり幸いであることを知っていました。九人はそれぞれ自分の家に戻って行きましたが、一人は神の家に立ち帰ることを選びました。だからこそ主イエスは19節において明確に言われます。「(19) 立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」と。

 

 そして同時に私たち一人びとりに、いま主イエスが語っておられる御言葉を正しく聞きたいと思います。それはその前の18節です。「(18)神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」。この御言葉は「あなたはどうなのか?」という主イエスの問いかけでもあることに気を付けましょう。私たちはどうなのでしょうか?。私たちはどちらの側の人間なのでしょうか?。それぞれの家に戻って行った九人の側に立つのか、それとも、神への讃美と感謝を献げるために主イエスのもとに帰ってきた一人の側に立つのか。それがいま、私たち一人びとりにも問われているのではないでしょうか。

 

 先程、ドイツ語の聖書では聖書の時代のらい病人のことをAussatzige“と言うのだとお話ししました。これは直訳するなら「外に座る人々」という意味です。しかし私たちは、今朝の御言葉の、神を讃美し感謝するために戻ってきた一人の側に立つとき、もはや外に座る人々ではなく、まさに“Diejenigen, mit dem Herrn stehen”(主と共に立つ者たち)とならせて戴いているのではないでしょうか。いまここで、御言葉と聖霊によって現臨しておられる主イエス・キリストの御業のもとにあって、私たち一人びとりが、ここに集う全ての者たちが、主と共に立つ者たちとならせて戴いているのです。主と共に、主の平安の内を、主の愛に支えられつつ、主の祝福を戴いて歩む人生を、私たち全ての者が戴いているのです。だからこそ主イエス・キリストは、今朝の御言葉の最後の19節をも、たしかに私たち一人びとりに語っていて下さいます。(19) 立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」と。祈りましょう。