説    教              詩篇1819節  ルカ福音書17710

                 「神の僕たる生」 ルカ福音書講解〔160

                 2023・03・19(説教23122004)

 

 「(7)あなたがたのうちのだれかに、耕作か牧畜かをする僕があるとする。その僕が畑から帰って来たとき、彼に『すぐきて、食卓につきなさい』と言うだろうか。(8)かえって、『夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いをするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい』と、言うではないか。(9)僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。(10)同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。

 

 今朝の御言葉において、主イエス・キリストは「(7)あなたがたのうちのだれかに、耕作か牧畜かをする僕があるとする」と言われます。ようするに農業に携わる僕のことです。つまり、ある主人のもとに一人の僕がおりまして、一日中畑仕事を、あるいは家畜の世話をしていたというのです。その僕が一日の仕事を終えて帰って来たとき、主人は彼に対して「すぐきて、食卓につきなさい」とは言わないだろう。むしろ彼に対して「夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いをするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい」と言うではないか。それならば、あなたがたも主なる神に対して全く同じである。「(10)同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。

 

 どのような労働にもそれぞれの辛さ、大変さというものがございますけれども、農作業や牧畜は相手が自然であり、また動物や鳥や昆虫といった生物でありますから、本当の意味での「経綸」すなわちエコノミカルな知恵と技術が要求されるわけです。だから、それが終わったときの充足感には特別なものがあります。当然のことながら、今朝の御言葉に出てくるこの僕も疲れて帰ってきたに違いないのです。しかしこの疲れている僕に対して主人が申しますには「夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いをするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい」。まあ、これも当然と言えば当然ですけれども、僕はそれこそ疲れた身体に鞭打って、その主人の求めに応じて給仕の働きをするわけです。

 

 そこでこそ、主イエスはおっしゃいます。「(10)同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」と。ここには、どういうことが書かれているのでしょうか?。僕は僕らしく、主人は主人らしく振舞いなさいという、いわば社会的な秩序や価値観に関する教えなのでしょうか?。そうではないと思います。なによりも主イエスはここで、私たち人間の人生が(さらに言うなら私たちの存在そのものが)「神の僕たる生」であることを明確にお示しになっておられるのです。

 

 私たちの人生には、大別して2つの人生があるのではないでしょうか。ひとつは、私たち自身が主であるところの人生です。これはそう聞くといかにも自由そうであり、聞こえが良いのですけれども、裏を返して言うなら、ようするに「自分の意志が自分の人生の全てである」という生きかたです。ですから、物事が自分の意思に従って都合よく動いているうちは良いのですけれども、ひとたび自分の意志に反すること、嫌なこと、予定外のこと、想定外のことが起こりまと、途端に行き詰ってしまうのです。八方塞がりになってしまうのです。甚だしきに至っては、もう自分の人生には何の意味も希望もない、という破局的な結論に簡単に陥ってしまうのです。それが、私たち自身が主であるところの人生です。

 

これに対して、私たち自身が主なのではなくて、神が私たちの変わらぬ主であられる人生というものがあるのではないでしょうか。言い換えるなら、それは私たちキリスト者の人生であります。キリスト者と他の人々との決定的な違いがそこにあると言って良いでしょう。つまり、私たちの人生は「神の僕たる生」なのだという事実と意思に堅く立ち、いかなるときにも神の見えざる御手の導きに従う人生の歩みです。そのような「神の僕たる生」には行き詰まりというものがありません。否、行き詰らざるをえないような困難や試練に遭遇しても、そこでなお、私たちは、神に従うことによって真の自由と平安を得ることができるのです。逆に言うなら「神の僕たる生」は決して絶望しない人生です。希望を失わない人生です。それはなぜでしょうか?。それは、神は私たちを絶対にお見捨てにならないからです。

 

 もっと言いますと、私たちの意思は、簡単に私たちを裏切り、私たちを見捨てるのです。それは、たとえ誰の意志であり之ましょうとも、それは所詮は人間の意志であり、それこそ「一寸先は闇」に等しい、弱く不完全な導きにすぎないのですから、それは結局は私たちを見捨て、裏切るものでしかないのです。自分の意志が自分を裏切るというのは、なんだか逆説のようですけれども、それが歴然たる事実である証拠が、年間26,000人と言われる自殺者の数に現れているのではないでしょうか。言い換えるならば、私たちは私たちの主であることはできないのです。そうではなく、私たちの人生が、いつも真の主を必要としているのです。

 

 今朝、併せてお読みした旧約聖書・詩篇第1819節に、このようにございました。「(19)主はわたしを広い所につれ出し、わたしを喜ばれるがゆえに、わたしを助けられました」。ここには、私たちが自分の意志で「広いところ」に連れ出したとは書かれていないのです。そうではなく、私たちの唯一の、真の、永遠の主であられる神が、私たちを「広いところに連れ出して下さって、私に真の自由を与えて下さった」と書かれているわけです。それで、それはいったいなぜかと申しますと「(主なる神が) わたしを喜ばれるがゆえに、わたしを助けられたからです」と言うのです。

 

 どうぞ覚えて下さい。この詩篇18篇の詩人は、非常に大きな悩み苦しみを経験した人です。その大きな悩み苦しみの深い淵の中から、もう一方の対極にいますところの主なる神を仰ぎ、神に向かって叫ぶように献げられた祈りの言葉が、この詩篇18篇なのです。私たちはとかくいたしますと、自分の意志が自分の運命を、人生を、切り開くのだ、それが自由であることの意味なのだと、そのように思い違いをするわけです。その結果は、自分の意志に裏切られて、絶望する以外にないのではないでしょうか。しかし「神の僕たる生」を生きる私たちは違うと思います。私たちはいつも、どこにいても、どのような境遇においても、主なる神の導きに従うことにこそ本当の自由と平安があることを、御言葉によって知らしめられている者として「(主なる神が) 私たちを広いところに連れ出して下さって、私に真の自由を与えて下さった」ことを感謝する人生を生きる、神の僕とされているのではないでしょうか。

 

 私は改めて最近、新島襄という人の生涯について、専門的な書物を何冊も取り寄せて、研究しているのです。新島襄は10年に及ぶアメリカでの学びを経て、キリスト教の宣教師として日本に戻ってくるわけです。1875(明治8)のことでした。そのとき、当時の文部大臣であった田中不二麿という人が新島襄に面会しまして、ぜひ明治新政府の閣僚になってほしい、ゆくゆくは文部大臣になって、日本の教育を指導して戴きたいと懇望したわけです。これに対して新島襄は即座に「私は主イエス・キリストの僕ですから、官僚になることはできません。お断りします」と言いました。いくばくかの遣り取りののち、田中不二麿が「それでは君は耶蘇の奴隷ではないか!」と叫んだところ、新島襄は莞爾として笑いつつ「さよう、われは耶蘇の奴隷なり。しかして我は、そを最も誇りとする者なり」と答えたそうです。

 

 私たちもまた、同じ志に、同じ誇りに、そして同じ自由に、生き続ける「神の僕たる生」を生きる者たちなのです。まさにその「神の僕たる生」の自由と幸いを私たちに与えて下さるために、御子イエス・キリストは、あの呪いの十字架におかかり下さり、私たち全ての者の罪の贖いとなって下さり、救いと自由と平和を与えて下さったのです。祈りましょう。