説    教             イザヤ書3915節 ルカ福音書1756

                 「桑の木の信仰告白」 ルカ福音書講解〔159

                 2023・03・12(説教23112003)

 

 「(5)使徒たちは主に「わたしたちの信仰を増してください」と言った。(6)そこで主が言われた、「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう」。今朝の御言葉は「使徒たちは主に…言った」という言葉で始まっています。つまり、ここにルカは敢えて「弟子たちは」とは書かずに「使徒たちは」と書いているのですが、その意味は決して小さなものではないと思います。

 

なによりも新約聖書の元々のギリシヤ語で「使徒」とは「主によって遣わされた者」という意味の“アポストロス”という言葉です。逆に言うならそこから「弟子」という言葉も派生してきているわけでして、いわば「使徒」という言葉はキリストの弟子をあらわす言葉としては最も古いものだと言えるでしょう。そこで、私たちの信仰生活もまた、いつも基本に立ち帰ることが大切であり、求められているのではないでしょうか。その基本とは「私たちは使徒である。、つまり私たちは、主によって遣わされた者たちである」という事実です。

 

 そういうことを考えますなら、たとえば教会も使徒の務めを担う器であり、まさに「使徒的職務」を主から委ねられた群れです。よく私は祈りの言葉の中で「聖なる、公同の、使徒的なる教会」と申しますが、教会の教会たる本質は実は使徒性にかかっているわけでありまして、言い換えるなら、私たちがいつも、使徒伝来の生き生きとした信仰告白にいまここで生かされている群れであり続けていることが、私たちの教会が「真の教会」であることの最も確かな徴なのです。

 

 さて、今朝の御言葉に戻りたいと思います。使徒たちは主イエスに「わたしたちの信仰をましてください」と願いました。これは、今までの御言葉の中で主イエスがいつも、信仰の大切さについて教えておられた、それに対して使徒たちが呼応して申した言葉だと言えるでしょう。このような質問は、今日の教会生活の中でもよく出されます。いまは新型コロナウイルスのため休止中ですが、毎年、冬と夏に行っていたリトリートにおいても、私が講演をした後で皆さんの中から「どうしたら信仰がまし加えられるでしょうか?」「どのようにしたら信仰が成長するでしょうか?」というご質問がたびたび出されたものです。そして私は、そのつどかなり丁寧にそうしたご質問に応えて参りました。

 

 ところが、主イエスのお答えは、やや様相が異なっていました。まるで禅問答のような、ある意味で不思議なお答えを主イエスは使徒たちになさったのです。どうぞ今朝の6節をご覧ください。「(6)そこで主が言われた、「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう」。本当にこの答えは禅問答のようだと、ここを読むたびに思わされる場面です。いったい使徒たちに対する答えになっているのだろうかと、ややもすれば疑問視されるようなお答えを主イエスはなさった。だからこそ、私たちはこの答えを正しく読み解かなくてはなりません。

 

 余談のようですが、私は皆さんもご存じのとおり、農学校で学んだ経験を持つ者です。農学という学問は、応用植物学であり、応用動物学であり、そして同時に応用昆虫学でもあるのです。そこで、当時の私の心を捕らえ、特に夢中にさせたものの一つは養蚕でした。昆虫としての蚕はもとより、蚕の飼料である桑の栽培にも心惹かれたのです。農学校には養蚕のための蚕室と共に広い桑畑がありました。桑には主に@ヤマグワ系、Aカラヤマグワ系、Bロソウ系、という3つの植物分類学上の系統があるのですが、そのいずれにも共通していることは、どの系統の桑の木も、とても根が深くて丈夫だということです。

 

 植物というと、ほとんどの人は、土の上に現れた部分しか見ようと(知ろうと)なさいませんけれども、実は、当然のことですが、植物は根の部分も含めて全体か一個の植物体なのです。そして地上に現れた部分と、地下の根の部分の比率は、平均するとだいたい4.95.1ぐらいで、僅かに根のほうが体積が大きいのです。では桑はどうかと申しますと、37ぐらいの比率で、圧倒的に根が大きくなるのです。つまり、桑は他の植物に較べて非常に根が大きくて丈夫なので、乾燥にも非常に強く、安定した葉を蚕に供給できるわけです。

 

 ですから、今朝の主イエスの御言葉は(私は農学校時代に洗礼を受けたのですが)とても不思議な御言葉だと感じました。使徒たちも同じではなかったでしょうか。「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう」。他の木だって無理だと思いますが、ましてや桑の木に『抜け出して海に植われ』と命ずることは無理難題を通り越して100%不可能なことです。それならば、まさにその100%不可能なことを、主イエスは使徒たちに求めておられる。しかも「(あなたがたに)からし種一粒ほどの信仰があるなら」と言われるのです。言い換えるなら、信仰というのはそれほど凄いものなのだ、力があるものなのだ、ということです。

 

 大型タンカーなどに搭載されるエンジンで、世界最大のものだという機械を日本の石川島播磨重工業という企業が作りました。なんと1,495,000馬力のエンジンです。排気量は2700CCだそうです。大きさは4階建てのビルとほぼ同じ。しかし、その巨大なエンジンを始動するスタータースイッチは、小さな丸いボタンにすぎません。「えっ?本当にこんな小さなスイッチで、この巨大なエンジンが動くのですか?」と思うような、本当に小さなスイッチです。いわば、信仰もそれと同じだと主イエスは言われるのです。どういうことかと申しますと、それは私たちの力などではないということです。言い換えるなら、私たちの信仰は神という名の巨大な御力に直結しているスタータースイッチなのです。だからこそ「からし種一粒ほどの信仰」で十分なのです。

 

 ここで、どうぞ注意してください。主イエスが言われる「からし種一粒ほどの信仰があるなら」とは、小さな信仰で良いのだ、という意味ではありません。そうではなく、あなたの信仰はまことの神に直結したスタータースイッチになっているか?という問いなのです。言い換えるなら、それは信仰告白の問題なのです。十字架と復活の主イエス・キリストを救い主と信じ告白する信仰に、いつもあなたは健やかに生きているか?という問いです。もし、私たちが真実に、十字架と復活の主イエス・キリストを信じ告白する信仰に生きているなら、私たちの味方は(私たちの力は)私たち自身ではなく、主なる神なのです。

 

 新約聖書のローマ書831節から39節までを心に留めましょう。「(31)それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。(32)ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。(33)だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。(34)だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。(35)だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。(36)「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。(37)しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。(38)わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、(39)高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」。

 

 どうか私たちは、使徒として召された恵みを喜びつつ、この偉大な御力に寄り頼んで生きてゆく者たちであり続けましょう。まさにこの御力によって、桑の木に「抜け出して海に植われ」と命じても、そのとおりになるのです。祈りましょう。