説    教             レビ記191718節 ルカ福音書1714

                 「キリストの赦し」 ルカ福音書講解〔158

                 2023・03・05(説教23102002)

 

 「(1)イエスは弟子たちに言われた、「罪の誘惑が来ることは避けられない。しかし、それをきたらせる者は、わざわいである。(2)これらの小さい者のひとりを罪に誘惑するよりは、むしろ、ひきうすを首にかけられて海に投げ入れられた方が、ましである。(3)あなたがたは、自分で注意していなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。(4)もしあなたに対して一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい」。

 

主イエス・キリストは「(誰かが)一日に七度、あなたに対して罪を犯しても、七度とも『悔い改めます』と言ってあなたのところに戻ってくるなら、赦してやりなさい」とおっしゃいました。新約聖書の他の個所では「七回を七十倍するまで赦しなさい」とも語っておられます。「七回を七十倍」というのは490回ということですから、これはようするに、無限に、無条件で、限りなく赦してやりなさい、という意味になると理解すべきでありましょう。

 

 しかしながら、主イエスにそのように言われると、現実の私たちは、実は困ってしまうのではないでしょうか。私たちは複雑で難しく、ときに煩わしい人間関係の中で、しばしば「あの事だけは、あの人だけは、どうしても赦せない」という思いに捕らわれることが、あるかもしれないからです。あるいは、最近の数々の凶悪犯罪や事件を観るたびに「これはむしろ、赦してはいけない。許されるべきではない」と感じることも多々あるかと思うのです。

 

 なるほどキリスト教は「赦しの宗教」「愛の宗教」だと言われるけれど、自分はとうてい、赦しに関するキリストの教えにはついていけない。いや、ついていきたくない。「汝の敵を愛せよ」と言われても、それは所詮は理想論にすぎない。現実の私にはとても無理だ。それこそモラルハザードだ。危険な教えだ。そう感じてしまうのが正直なところではないでしょうか。

 

 それでは、主イエス・キリストは、実現不可能な単なる理想論を、ここで語っておられるのでしょうか?。そうではないと思います。なによりも、主イエス・キリストご自身が「敵を赦せないあなたはダメな人だ」とはひと言もおっしゃっておられないことに心を留めましょう。言い換えるなら、私たちは主イエスから「できない赦しを無理やりしろ。それができないあなたはダメだ」とは言われていないのです。そうではなくて、主イエスはいつも、まさに赦しにおいてこそ、あるがままの、破れだらけの、失敗だらけの、至らぬところばかりの私たちを、そのままに愛して下さるかたなのです。

 

 むしろ主イエス・キリストは「人を赦せないあなたは、ダメな人なんかではないよ」と語っていて下さるかたです。主イエス・キリストは、私たちがどうしても赦せないと感じるような、苦しい辛い、煩わしい対人関係の経験の中でこそ、いつも私たちと一緒にいて下さるかたです。では、そこで、私たちにとっていちばん大切なことはなんでしょうか?。それは、私たちがいまあるがままに、キリストの赦しに生かされた人になることではないでしょうか。つまり、お気づきかもしれませんが、ここでいきなり主語が変わるのです。今朝の聖書の御言葉の主語は、実は私たちなのではなくて、神の子イエス・キリスト御自身なのです。つまり、今朝の御言葉は、私たちを縛り付ける道徳訓なのではなくて、私たちに真の自由を与える福音なのです。

 

 赦しには2つの種類の赦しがあるのです。@私たちの赦しと、Aキリストの赦しです。私たちの赦しは、不完全な、弱い、条件つきの赦しにすぎません。キェルケゴールという哲学者は「本当に人を赦すとは、その人を赦したことさえ忘れることだ」と言いました。しかし、私たちはちょうどその真逆なのです。「あなたを赦すけれど、あなたから受けた仕打ちは一生忘れないぞ」と言うのが私たちなのです。キリストの赦しは、そのようなものではありません。キリストの赦しは、私たちの想像をはるかに超えた本当の赦しです。それこそ「七たびを七十倍するまで赦す」赦しなのです。

 

 30年以上前のことです。教会の主日礼拝に休みなく通っていた一人の男性から、私はとても難しい2つの質問を受けました。それは「自分は洗礼を受けたいと思うのだけれども、どうしてもひっかかるひことが2つある。@「聖書では私たちはみんな罪人だと言うけれど、自分は生まれてから今日まで、ただの一度も、人様に後ろ指をさされるようなことはしたことはありません。そのような私も、罪人なのでしょうか?」。(これは今朝の御言葉に即して言うなら、私は神から赦して頂かなければいけないような人間ではありません、ということです)。A「キリストは私たちの罪のために十字架にかかって死んで下さったと言うけれど、それは2000年前に勝手に十字架にかかったのではありませんか?それがどうして、今の私の救いになるのですか?」。(これはようするに、キリストは2000年前に勝手に私の罪を赦して下さったと言うけれど、それが私の救いだとはいまいち納得できません、ということです)。どちらも超難問です。しかし牧師であります限りは、いかなる難問でありましょうとも、ただちに答えなくてはなりません。「一日考えさせて下さい、明日、お答えします」ではいけないのです。すぐに答えなければならないのです。

 

私はそのかたに(それこそ聖霊の導きとしか思えないのですが)咄嗟にこう答えました。「はい、あなたは人の前で、後ろ指をさされるような人ではないことは、私も心からそうだと思います。では、人様の前ではなくて、神様の前ではどうですか?。同じことを、神様の前でも言えますか?」。第二の問いに対しては、私はこう答えました。「キリストは神の御子であられますから、2000年前は昨日のようなものです。そして、その神の御子であられるキリストは、あなたの罪のために、勝手に十字架にかかって死んで下さったからこそ、有難いんじゃありませんか?」。そのかたはしばらく考えておられましたが、やがて「わかりました。私は洗礼を受けたいと思います」とお答えになりました。

 

なによりも、私たちは、神の前に、自分が神によって赦されなければ、本当に人間として、自由な、安らかな、生き生きとした、生活はできないのです。自分の匂いが自分ではわからないのと同じように、自分の罪は自分ではわからないのが私たち人間なのです。ましてや神に対する罪はわからないのがわたしたちなのです。それだからこそ、その私たちの無自覚的な罪を、主イエス・キリストは、ただお一人で、最後まで、私たちを見捨てずに、担い切って下さって、あのゴルゴタの呪いの十字架におかかりになって下さったかたです。まさに私たちの罪を背負って、勝手に(バルトの言うgöttliche Freiheit=神的自由によって)十字架にかかって、御自分の生命を献げて下さったのです。

 

永遠なる神の御子みずから、ご自分の生命を献げて、私たちの罪の贖いとなって下さったのです。私たちの罪を、神の御子、主イエス・キリストだけが、完全に担い取って、解決して、赦して下さったのです。だから、私たちにとって本当に大切なことはただひとつのことだけです。それは、キリストの赦しに生かされた人になることです。キリストの赦しに生かされてこそ、私たちは本当に、生きた者になるのです。もし、私たちが、たとえ小さくても、不完全であっても、他者に対する本当の赦しに生き始めることができるとすれば、それはまさに「キリストの赦し」に生かされてこそできることなのです。祈りましょう。