説    教                詩篇1715節  ルカ福音書161931

                  「終末論的生活」 ルカ福音書講解〔157

                  2023・02・26(説教23092001)

 

 「(19)ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。(20)ところが、ラザロという貧乏人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、(21)その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。(22)この貧乏人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた」。今朝お読みしたルカ伝1619節以下には、まずこのように記されていました。

 

あるところにラザロという、たいへん貧乏で、いわばホームレスのような生活をしていた人がいたのです。このラザロは重い皮膚病に冒されていましたが、たいへん信仰の深い人で、神の御支配を信じて正直に、そして正しく清く生きていた人でした。これに対して、一人の大金持ちがいました。それはラザロが「この金持の玄関の前にすわり、その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた」その家の主人でした。彼は19節にありますように「紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた」のでした。もちろん、神を信じていなかった人です。

 

 さて、死はどのような人間にも平等に訪れるものです。どうぞ22節を見て下さい。「(22)この貧乏人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた」のです。そして本当の問題、つまりこの「ラザロと金持ちの物語」の主題は、彼らが死んでから後の事柄なのです。23節以下を読みましょう。「(23)そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。(24)そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。(25)アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。(26)そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。

 

 私は学生時代に浄土真宗の大家で世界的な仏教学者であった花山信勝先生から仏教学とサンスクリット語を学んだことがあります。(あまり人に話したことはないのですが、今でもサンスクリット語で般若心経を唱えることができます)。花山先生というかたは浄土真宗の高僧ですが、聖書にも造詣の深いかたで、あるとき私に、ご自分が聖書でいちばん心惹かれるのはこのルカ伝1619節以下の「ラザロと金持ちの物語」だと話されたことがありました。当時、毎週日曜日の早朝に放映されていたNHKの「宗教の時間」という番組でも、同じことを語っておられました。そこで、私が花山先生にその理由をお尋ねしますと、花山先生はこうお答えになったのです。「ここには終末論的生活の重要性が余すところなく、そしてわかりやすく語られているからです。あなたもそう思いませんか?」。私はますますびっくりしてしまいました。仏教学者である花山先生から「終末論的生活」という言葉を聴くとは思わなかったからです。しかし花山先生は、聖書が宣べ伝えている福音の中心は「終末論的生活」にあると確信をもって私に語られたのでした。

 

 続きを読んでみましょう。今朝の御言葉の27節以下です。「(27)そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。(28)わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。(29)アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。(30)金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。(31)アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。

 

 大金持ちが死んで、黄泉に下ったとき、ふと目を上にあげると、神の御国にいてアブラハムの懐に抱かれているラザロの姿が見えました。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思わせる場面ですが、芥川龍之介はまさに聖書のこの個所から着想を得て「蜘蛛の糸」を書いたのです。そこで大金持ちはアブラハムに大声で救いを求めました。しかしそれはできないという返事をアブラハムから受けたので、いまお読みした27節以下の求めをしたわけです。つまりそれは「自分にはまだ生きている五人の兄弟がいるから、彼らがこんな苦しいところに来なくても済むように、ラザロを遣わして警告させて下さい」と求めたわけです。しかし、その最終的な求めに対しても、アブラハムの答えは次のようなものでした。31節です。「アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。

 

 これは、どういうことなのでしょうか?。ひと言で申しますなら「現在のあなたの生活のただ中で神の御言葉に聴き従いなさい」ということなのです。それこそが「終末論的生活」なのです。終末論とは英語で言いますなら“eschatology”です。それはギリシヤ語のエスカトン(目的地)という言葉が元になっています。つまり「終末論的生活」とは、私たちがいま現在の日常生活のただ中において目的地を目指した歩みをすることです。その私たちの目的地とはどこでしょうか?。それこそ神の御国すなわち天国なのではないでしょうか。それは神の聖なる愛と御意思が常に現在形であるところの場所です。そこに私たちはいま、歴史の中の歩みにおいて入れられているのです。それがキリスト者として生きるということです。言い換えるなら、私たちは罪によって神から離れ、現在を生きられないものになっているのです。罪という名の過去形に縛られてしまっているのです。だから罪の支配のもとにある限り「終末論的生活」は不可能なのです。言い換えるなら、私たちは人生の最終目的地を失った放浪者になっているのです。

 

 旅は目的地があってこそ初めて成り立つものです。目的地を見失った旅は、もはや旅ではなく放浪なのです。それと同じように、私たちの人生もまた、最終目的地を見据えてこそはじめて人生たりうるのではないでしょうか。最終目的地を見失った人生は、もはや人生ではなく放浪になるからです。では、そのような放浪者にならないために、私たちに必要なものは何なのでしょうか?。それこそ、今朝の御言葉に大きな答えがあるのです。29節以下をもう一度心に留めましょう。「(29)アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。(30)金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。(31)アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。

 

 ここに「モーセと預言者」とあるのは旧約聖書のことです。つまり、主イエスの時代の聖書そのもののことですね。さらに申しますなら、主イエス・キリスト御自身が神の御言葉の受肉者なのですから、聖書そのものであり、神の言葉そのものなのです。つまり「モーセと預言者に聴く」とは「十字架と復活の主イエス・キリストを信じ、主イエス・キリストの御受難と復活の御身体である主の教会に結ばれていきること」なのです。キリスト告白者としての新しい人生を歩むことです。そのとき、私たちの人生は罪と死の支配から自由なものとされ、放浪者であることをやめて御国への旅人となり、終末論的生活を生きる神の僕となることができるのです。

 

 なによりも、主イエス・キリストは言われました。ヨハネ伝141節以下です。「(1)あなたずたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。(2)わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。(3)そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおるところにあなたがたもおらせるためである」。まさにこの救いを状成就して下さるために、主は私たち全ての者の罪を担って、あのゴルゴタの十字架への道を歩んで下さったのです。祈りましょう。