説    教               箴言1623節  ルカ福音書161418

                  「主の道を、主と共に」 ルカ福音書講解〔156

                 2023・02・19(説教23082000)

 

 「(14)欲の深いパリサイ人たちが、すべてこれらの言葉を聞いて、イエスをあざ笑った。(15)そこで彼らにむかって言われた、「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとする人たちである。しかし、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神のみまえでは忌みきらわれる。(16)律法と預言者とはヨハネの時までのものである。それ以来、神の国が宣べ伝えられ、人々は皆これに突入している。(17)しかし、律法の一画が落ちるよりは、天地の滅びる方が、もっとたやすい。(18)すべて自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うものであり、また、夫から出された女をめとる者も、姦淫を行うものである」。

 

 今朝、併せてお読みした旧約聖書の箴言162節には、このように記されていました。「(2)人の道は自分の目にことごとく潔しと見える、しかし主は人の魂をはかられる。(3)あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る」。私たちは主なる神の前にまことに愚かで、目先のことしか見えない者たちでありますので、今朝の箴言に記されたこの御言葉をいつも心に留めておく必要があるのではないでしょうか。私たちの立てる計画、私たちの人生の道は、たいていいつも「自分の目にことごとく潔しと見える」のです。つまり、それは私たちにとって最善の道であるかのように見えるのです。

 

 しかし、箴言の詩人はそのような自己義認に生きようとする私たちに語りかけています。「しかし主は人の魂をはかられる。(3)あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る」と。ベートーヴェンについて、このような逸話がございます。ベートーヴェンはオーケストラを自ら指揮していたとき、楽団員の腕が未熟なゆえに演奏を失敗することについては少しも怒らなかった。しかし、楽団員がたとえどんなに上手に演奏したとしても、自分の作曲の理念に反する演奏をしたときには烈火のごとく怒ったというのです。そこで、主なる神の、私たちに対するなさりかたも、それと似ているのではないでしょうか。

 

 たとえ私たちの未熟さと弱さのゆえに、人生行路において数々の失敗をいたしましょうとも、主なる神はそのことについては少しも怒りたまわず、かえって私たちを、その失敗を通して諭し導き、より大きな経験をお与えになり、成長させて下さるかたなのです。しかし、私たちがどんなに要領よく、また上手に人生行路を立ち回ろうとも、その私たちの生きかたそのものが神のご意思に背くものであったならば、神はかならず御怒りをもって(すなわち、私たちの目には厳しく見える愛の手段を通して)私たちの過ちを正したまい、私たちを罪に由来するあらゆる危険から守り、永遠の御国へと導いて下さるかたなのです。

 

 私が牧師になりたての頃、その当時私は最初の任地である東京の青山教会におりましたが、毎週木曜日夜の祈祷会に休まず出席なさる一人の男性がおられました。当時50代半ばぐらい。南麻布でドラッグストアを経営していらしたかたでした。教会の籍は渋谷の山手教会にあったので青山教会の礼拝には来られなかったのですが、祈祷会には休まず出席なさっていたかたでした。名前を仮にSさんとしましょう。あるときSさんは私に若い頃の一つの経験を語って下さいました。Sさんが18歳のとき、当時、Sさんは東京の下町の鉄工場で働いていらしたそうです。そのとき、一人の工員が、なにか気に入らないことがあったのでしょうか、Sさんの側頭部をわざとハンマーで殴ったのだそうです。ところがその時に受けた傷は思いのほか深く、Sさんは左耳の聴覚を失い、右の耳も思うように聞こえなくなってしまったのでした。

 

 当然のことながら、Sさんはその工員から受けた酷い仕打ちを激しく憎みました。「殺してやる」と思ったそうです。そして何週間かが経ちまして、いよいよその男を殺そうと決心して、コートの下に出刃包丁を隠して工場への道を歩いておりましたところ、たまたま、いつも前を通りかかる教会の看板が目に飛び込んできたそうです。そこには「汝殺すなかれ」と書かれていました。Sさんはその言葉を読んで、雷に撃たれたように立ちすくんでしまったそうです。そしてこう思ったのでした「私はなんて恐ろしいことを考えていたのだろう。そうだ、彼を殺すのは止めよう。私には他になすべきことがあるはずだ」。それがSさんがキリスト教に入信したきっかけでした。その日以来、Sさんは忠実なキリストの僕、そして教会の長老として歩まれ、息子さんは同志社の神学部を出て、いまは神戸の教会で牧師として働いているのです。

 

 改めて、今朝の御言葉の14節と15節を読んでみましょう。「(14)欲の深いパリサイ人たちが、すべてこれらの言葉を聞いて、イエスをあざ笑った。(15)そこで彼らにむかって言われた、「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとする人たちである。しかし、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神のみまえでは忌みきらわれる」。特にこの最後の言葉は私たちに心に響きます。「人々の間で尊ばれるものは、神のみまえでは忌みきらわれる」。そのとおりではないでしょうか。私たちにとって最も大切なこと、真に幸いな、そして自由な人生の条件とは何でしょうか?。それは、たとえ他の人々がどんなにそれを尊ぼうとも、神の御旨に反する道はこれを歩まず、逆に、たとえ他の人々がどんなに嘲笑い、軽んじましょうとも、神の御心であるところの道を一心に歩んでゆく、そのような人生を生きる神の僕になることではないでしょうか。

 

改めて箴言162節と3節の御言葉を心に刻みたいと思います。「(2)人の道は自分の目にことごとく潔しと見える、しかし主は人の魂をはかられる。(3)あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る」。そして同時に私たちは、今朝のルカ伝1617節と18節に心を留めたいと思うのです。「(16)律法と預言者とはヨハネの時までのものである。それ以来、神の国が宣べ伝えられ、人々は皆これに突入している。(17)しかし、律法の一画が落ちるよりは、天地の滅びる方が、もっとたやすい」。

 

 主イエス・キリストはいま、御自身の十字架による絶対的な救いの恵みによって、私たち一人びとりに宣言して下さるのです。「見なさい、まさにいま、天国の門が、あなたのために開かれているのだ」と。天国の門が開かれているので、あたかもラグビーの選手が敵陣に突入するような勢いで、人々が続々とそこに「突入している」ではないか。いまや旧約の時代、すなわち「律法と預言者の時代」は過ぎ去り、新しい救いの契約が、全ての人々を御国へと招きたもう神の聖なる御心が、十字架の主イエス・キリストによって到来しているのです。まさに私たち一人びとりがいま、十字架の主イエス・キリストに連なる「御国の民=新しい救いの契約にあずかる人々」とされているのです。今まさに私たち一人びとりが、主の道を、主と共に歩む、救われた者たちとならせて戴いているのです。

 

今朝の17節にありますように「律法の一画が落ちるよりは、天地の滅びるほうが、もっとたやすい」のは事実です。だからこそ、主イエス・キリストは、私たちの全存在の重みを、その罪の重みも含めて、あのゴルゴタの十字架において担い切って下さいました。そして、御自身の死と葬りを通して、私たちの罪の贖いを成し遂げて下さり、信ずる全ての者に、救いと永遠の生命を与えて下さるのです。だからこそ、私たちはいま共に「主の道を、主と共に」歩む僕たちとされているのです。そこに、私たちの変わらぬ幸いがあり、自由があり、祝福と喜びがあることを覚えて、新しい一週間を、主の道を、主と共に、歩んで参りたいと思います。祈りましょう。