説    教             歴代志上2914節  ルカ福音書161013

                   「神への誠実」 ルカ福音書講解〔155

                 2023・02・12(説教23071999)

 

 「(10)小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。(11)だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。(12)また、もしほかの人のものについて忠実でなかったら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか。(13)どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。

 

 今朝の主イエスの御言葉は、ひとつの人生訓として聞いても、私たちの心に充分に響いてくるものです。「(10)小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である」。この御言葉はたとえば、企業の新人研修などでも引き合いに出されることが少なくないと聞きました。聖書の御言葉であると知ってか知らでかはわかりませんけれども、とにかくこの10節はひとつの処世訓として社会的に認知されていると言えるのではないでしょうか。

 

 この御言葉を牧師の世界にあてはめますなら、小さな教会(信徒数の少ない教会)でしっかりした牧会伝道ができない牧師は、大きな教会に行ってもやはり良い働きはできないのです。また逆に、大きな教会で良い働きができた牧師は、どんなに小さな教会に転任してもそこで同じように良い働きができるのです。教会というのは不思議なものでして、大きな教会は小さな教会より忙しい、ということはないのです。逆に、小さな教会は大きな教会より暇だ、ということもないのです。規模の大小や信徒数の多少にかかわらず、どんな教会もキリストの御身体なのでありますから、大事と小事はそこでは同じ重みを持つのです。

 

 このことをどうぞ念頭に置いて頂いて、そこで改めて今朝の10節の御言葉を読んでみたいと思います。「(10)小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である」。たとえば、ここに一人の会社員がいたとします。あるとき社長から直々に「これこれの仕事をして欲しい」と言われました。ところがその会社員は社長に対して「そんな小さな仕事はしたくありません」と答えたとしたら、その社長はどう感じるでしょうか。たぶん「この人には大きな仕事も任せられないな」と感じるのではないでしょうか。逆に、どんなに小さな仕事であっても心をこめて果たした会社員がいたとしたら、社長はその人に、次には大きな仕事を任せるようになるのではないでしょうか。

 

 そこで、この会社員とは私たちのことであり、社長とは主なる神のことだと考えてみましょう。人生において、私たちはいつも、やりがいのある、大きな仕事ばかりを任せられるとは限りません。ときには、私たちが「これはやりたくない」と思うような、いわゆる「小さな仕事」「つまらない仕事」「骨折り損のくたびれ儲け的な仕事」をしなければならないことも、あるのではないでしょうか。まさにそのような時にこそ、私たちの真価が問われるのです。もっと言うなら、私たちの、神に対する信仰が問われるのではないでしょうか。さらに言えば、私たちの、神への誠実が問われるのではないでしょうか。

 

 東北地方の、豪雪地帯の教会に赴任した牧師がおりました。彼は温かい地方の出身でしたから雪国の生活の厳しさを知らなかった。冬になって、毎日、教会の周囲と、道路の雪かきをしなければなりませんでした。葉山教会で申しますなら坂道の掃除と同じです。しかし彼は、その慣れない雪かきの仕事を忠実に、心をこめて、毎日毎日果たしたのです。あるとき、彼は私に電話でこう申しました。「雪かきの仕事は想像以上に大変だ。しかし、これは主が私に与えておられる小事なのだと思う。だから心をこめて果たすのみだ」。私はそれを聞いて感心しました。彼は大事を任せることができる牧師だと感じました。私がそう感じた以上に、教会のかしらなる主イエスご自身がそう感じておられるに違いないと思いました。

 

 今朝の御言葉の11節から13節までを改めてお読みしましょう。「(11)だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。(12)また、もしほかの人のものについて忠実でなかったら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか。(13)どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。

 

 この11節に記されている「不正の富」というのは、私たちが人間的な価値基準で見て「この仕事はつまらない」と判断する事柄のことです。言い換えるなら、私たちにとって「やりがいの無い仕事」「やりたくない仕事」「骨折り損のくたびれ儲け的な仕事」に見える事柄をさしています。つまりこの11節は10節の内容を補足説明しているわけです。そのような「小事」に見える仕事に忠実でない人に、神が大事をお任せになることがあるだろうかと主イエスは言われるのです。12節の「(12)また、もしほかの人のものについて忠実でなかったら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか」というのも同様です。そして13節の御言葉に私たちは注目せねなりません。

 

(13)どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。この13節はなにやら唐突に出てきた御言葉のようにも見えます。論理的な飛躍があるように見えるのです。しかし、そうではありません。今朝の10節以下の全ての御言葉において、主イエス・キリストが私たち一人びとりに語っておられる福音はなにかと申しますと、それは「あなたこそは、神に誠実な人として私が召した人である」という告知だからです。

 

 「(13)どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない」と聞いて、私たちは「そんなものかな」と感じるかもしれません。なかなか自分自身の事柄としてこの御言葉を聞かないのかもしれません。しかしよく考えますなら、小事に不忠実であるということは、言い換えるなら、自分を主として人生を歩んでいる、ということではないでしょうか?。自分にとって良いか悪いか、得か損かという判断基準を、自分が所持し得ているのだと思い違いをしているのが私たちなのです。そのようにして、実は私たちは現実の中に喜びと祝福を見出せずにいます。「自分が犯罪者になったのは境遇が悪いからだ」と言いのけた犯罪者がいましたが、よくよく思えば、私たちもそれと似た価値基準を持ってしまっていることはないでしょうか。

 

 「ひな菊」という小さな物語があります。あるところに、道ばたに、小さなひな菊が咲いていました。小鳥が来て訊きました。「ひな菊さん、どうしてそんなところに咲いているの?」。ひな菊は答えて言いました「神さまがここに咲けとおっしゃったので咲いています」。私たちも同じではないでしょうか?。主なる神が「ここに咲きなさい」とおっしゃっておられる所にこそ、私たちの真の幸いがあるのです。

 

 私たちは環境や境遇の如何にかかわらず、主なる神が限りない祝福として与えて下さっている人生を生きている者たちであり、神の僕たちなのです。人の目に小事と見えることも大事と見えることも、その全てが、私たちの人生を祝福と永遠の生命へと導くための神の賜物なのです。神は私たちの人生の全体を限りない祝福をもって導き支えて下さるかたです。そのために、御自身の独子なるイエス・キリストを私たちの罪の贖いとして与えて下さったかたです。この十字架のキリストを信じ、主に贖われた者として、主の御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会に結ばれて歩むとき、私たちは主の御手から、人生の全体を、その全ての日々を、かけがえのない祝福として、永遠の御国への旅路として、受け取る僕とされているのです。祈りましょう。