説    教               箴言1628節  ルカ福音書1619

                   「不正な家令の譬」 ルカ福音書講解〔154

                 2023・02・05(説教23061998)

 

 「(1)イエスはまた、弟子たちに言われた、「ある金持のところにひとりの家令がいたが、彼は主人の財産を浪費していると、告げ口をする者があった。(2)そこで主人は彼を呼んで言った、『あなたについて聞いていることがあるが、あれはどうなのか。あなたの会計報告を出しなさい。もう家令をさせて置くわけにはいかないから』。(3)この家令は心の中で思った、『どうしようか。主人がわたしの職を取り上げようとしている。土を掘るには力がないし、物ごいするのは恥ずかしい。(4)そうだ、わかった。こうしておけば、職をやめさせられる場合、人々がわたしをその家に迎えてくれるだろう』。(5)それから彼は、主人の負債者をひとりびとり呼び出して、初めの人に、『あなたは、わたしの主人にどれだけ負債がありますか』と尋ねた。(6)『油百樽です』と答えた。そこで家令が言った、『ここにあなたの証書がある。すぐそこにすわって、五十樽と書き変えなさい』。(7)次に、もうひとりに、『あなたの負債はどれだけですか』と尋ねると、『麦百石です』と答えた。これに対して、『ここに、あなたの証書があるが、八十石と書き変えなさい』と言った。(8)ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。(9)またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう」。

 

 今朝のこの「不正な家令の譬」は、説教をする牧師の立場から申しますと、とても説教がしづらい聖書箇所のひとつです。もしかしたら「説教しづらい聖書箇所のダントツ一位」に選ばれるかもしれません。あるところに資産家の主人がいて、その人のもとに一人の家令が働いていたというのです。この「家令」と訳された言葉は英語で申しますと“スチュワード=steward”でありまして、主人の信任を受けて仕事上の管理いっさいを任せられた人物のことです。ところが、ある人がこの家令についてよからぬ噂を主人に流しました。なんと彼が「主人の財産を浪費している」と言うのです。スチュワードシップに悖る行為が行われているというのです。そこで主人は彼を呼びまして、それが本当のことかどうかを訊き質したわけです。

 

どうぞ2節をご覧ください。「(2) そこで主人は彼を呼んで言った、『あなたについて聞いていることがあるが、あれはどうなのか。あなたの会計報告を出しなさい。もう家令をさせて置くわけにはいかないから』」。さあ、困ったのはこの家令です。主人から指摘されたことは全て事実だったからです。彼はこう思いました、主人はきっと怒って私を懲戒免職処分にするに違いない。いまさらこの年齢で力仕事はできないし、乞食をするのも恥ずかしい。そうだ、こうしよう!と、この家令は何を思いついたかと申しますと、懲戒免職されてからも食べていけるように、いまのうちにシンパを(味方を、つまり不正な友達を)作っておこうと、こう思いついたわけです。つまり、彼はひそかに主人に負債のある人々を呼びまして、勝手に負債を軽減するように書類を書き換えて(ようするに公文書偽造ですね)自分に対する恩義を作ったのでした。

 

 さて、この事実を知った主人はどうしたでしょうか?。常識的に考えますなら、この家令は主人に対する背信行為に加えて、公金横領の罪を犯し、さらには公文書偽造の罪まで犯したわけですから、どんなに厳しい罰を受けても当然のことでしょう。ところが、なんとこの主人は、この不正な家令の悪知恵をほめたと言うのです。どうぞ8節以下をご覧ください。「(8)ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。(9)またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう」。

 

 そこで問題なのは、私たちはこの譬話をどのように理解すれば良いのか、ということではないでしょうか。主イエスのなさった譬話には様々な種類の人物が登場して参ります。その中には泥棒や強盗、悪い裁判官、放蕩息子、仲間を赦さない悪い家来、愚かで自己中心的な金持ち、羊の群れを見捨てて逃げる悪い羊飼い、等々が登場して参ります。しかしそのいずれの悪い人物も、批判されており、少なくとも良い意味は持たされていません。唯一の例外が今朝の「不正な家令の譬」でして、今朝のこの譬話においては、8節にありますように「ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。」というのです。悪いことをした人間を褒めるというのは、少なくとも聖書的・キリスト教的ではないように私たちは感じるのです。このことを、私たちはどのように理解するべきなのでしょうか?。

 

 この難しい歪な問いを解く鍵になるものが、今朝の8節の後半以降に語られている主イエスの御言葉です。「この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。(9)またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう」。私はずいぶん以前のことですが、神学校で新約聖書神学とギリシヤ語を教えていらした平野保先生にこの譬話について質問したことがあります。平野先生によれば「この譬話には複数の物語が混在している」ということでしたが、そのような理解はともかくとして、私はもっと素直にこの譬話を解釈することができるのではないかと思います。

 

 それは、どういうことかと申しますと、私たちは普通、この譬話の「不正な家令」を私たち自身のことか、あるいは他の誰かのこと、つまり私たちと同じ人間を示すものとして解釈するから混乱するのです。そうではなくて、実はこの「不正な家令」は主イエス・キリストご自身のことをあらわしていると理解すべきなのではないでしょうか。もちろんその場合、私たちは「不正」という言葉の意味を正しく理解する必要があります。英語で申しますなら不正とは“irregularity”です。あるいはドイツ語なら“Sofortmaßnahmen”です。いずれにしても、それは「ある特別な困難を打開するために行使される非常手段」という意味合いの言葉です。このことを私たちの信仰の大先輩である植村正久牧師は「キリストは我らの罪の贖いのために非常なる手段を敢えてなせり」と語りました。それは何かと言えば十字架のことなのです。使徒パウロも語っているように、キリストの十字架こそはこの世の知恵にとっては「愚かなもの」または「不正な手段」のように見えるのです。

 

 そもそも、私たち人間の罪そのものが、まさに「不正」そのものなのではないでしょうか?。この世にどんな不正があるにしても、私たちの罪にまさる不正はありえないのではないでしょうか?。しかも、私たちは罪が「不正行為」だということを自覚することさえできずにいます。そのような私たちを救うために、神は御子イエス・キリストの十字架という不正手段を敢えてお用いになるのです。どん底に落ちた私たちを救うために、神ご自身がどん底のもっと下にまで降りて来て下さったのです。つまり、御子イエス・キリストの十字架の御苦しみと死と葬りという「不正手段」をお用いになって、私たちを罪と死の支配から贖い、救って下さるかたなのです。

 

 だからこそ、今朝の御言葉の9節にはこのように告げられています。「(9)またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう」。ここで主イエスが言われる「不正の富」とは信仰のことです。信仰による生活もまた、この世の知恵にとっては「不正なもの」のように見えるからです。人間は神など信じなくても立派に生きていける、否、むしろ信仰などないほうが人間らしい生活ができると、この世の知恵は私たちに言うからです。しかし信仰による生活とは、そもそも滅びの子に過ぎなかった私たちを、神がどんなに大きな愛をもって救って下さったかを知ることに始まるのですから、それこそが真の自由と平安を私たちに与えるのではないでしょうか。

 

 主イエス・キリストは私たち全ての者に言われます「不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう」。信仰によって、主イエス・キリストと共に歩む生活、それこそ、主イエス・キリストの御手に死を超えてまでも支えられていることを知る者の生活。そのような信仰による新しい生活へと、私たち一人びとりが絶えず召し出されているのです。そして、信仰によって主イエスと共に歩む私たちを、主イエスは人生の最終目的地である永遠の住まいに、天国に、必ず迎え入れて下さるのです。祈りましょう。