説    教              詩篇1912節  ルカ福音書152532

                 「我等は何処に立つか」 ルカ福音書講解〔153

                 2023・01・29(説教23051997)

 

 私たち人間の社会というものは、なかなか一筋縄ではいかないものです。ある出来事においてハッピーエンドだと思われていた事柄の背後から、必ずと言ってよいほどに新たな火種が、新しい問題点が、現れてくるものなのです。昔から「好事魔多し」と申しますが、まさにその通りでありまして、放蕩に身を持ち崩していた弟息子の帰りを喜んで、父親が喜びの祝宴を始めたところが、そこに兄息子が畑仕事から戻って参りまして、この宴会騒ぎはいったい何なんだと、僕らに訊き糺したところから、今朝のルカ伝1525節以下の出来事が始まってくるわけであります。

 

 そこで、改めて今朝の御言葉・ルカ伝1525節以下を読んで参りましょう。「(25)ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞えたので、(26)ひとりの僕を呼んで、『いったい、これは何事なのか』と尋ねた。(27)僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。(28)兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、(29)兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。(30)それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。(31)すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。(32)しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。

 

 父親に無理やり財産の生前分与をさせて、自分は遠い外国に旅立ち、そこで放蕩三昧の生活に明け暮れて、全ての財産を失って、乞食同然の姿で故郷に帰ってきた弟息子に対して、兄息子のほうはと申しますと、彼は父親の言いつけをよく守って僕たちや農場や家畜を管理し、贅沢など一切せずに質実剛健な生活をして家を守り、いわば品行方正な優等生的な息子であったわけです。その兄息子が畑仕事から戻ってきますと、なにやら居間のほうで歌や音楽の声が聞こえる。みんなが御馳走を食べて踊っている。これはいったい何なんだと僕に訊くと、「ああ、若主人さま、ちょうど良いところにお帰り下さいました。あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです」。これを聞いて、兄息子は怒ってしまいました。ようするに拗ねたわけです。

 

怒って、拗ねて、家に入ろうとしない兄息子を、父親が外に出てきて宥めますが、彼は頑として家に入ろうとはせず、父に向ってこう言いました。「(29) わたしは何年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。(30)それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました」。

 

 この兄息子に対して、父は優しく諭すようにこう言いました。「(31)すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。(32)しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。

 

 さて、この譬話の要点はどこにあるかと申しますと、兄息子は弟と自分を較べて、いわば横の関係、水平的な関係だけで、つまり自分と弟を較べて「どちらが価値のある人間か」という視点から、弟との関係を捉えていたのに対しまして、父親は縦の関係、垂直軸における「かけがえのない息子」として、2人の息子を見ていたということにあるのです。ですから、よくこの「放蕩息子の譬」を、放蕩三昧の弟息子と品行方正な兄息子の対比において理解して「品行方正な人はえてして律法主義に陥りやすいものだ」と読む向きが一般的なのですけれども、それだけでは決してこの譬話を正しく読み解くことはできないのです。言い換えるなら、この譬話を私たちにお語りになっておられる主イエス・キリストは、私たち一人びとりに「あなたは水平軸と垂直軸、どちらを大切にして人間関係を(あるいは人生そのものを)捉えているのか?」と問うておられるわけであります。

 

 かつてドイツにカール・レーヴィット(Karl Löwith)という哲学者がおりました。ユダヤ人であったがゆえに第二次世界大戦中はナチスの迫害を逃れて日本に亡命し、東北大学などでも哲学を教えたことがある人です。とても神学的な考えかたをする人でして、私はこのレーヴィットの著書を通してずいぶん多くの神学的刺激を与えられました。このレーヴィットが「キリスト教的紳士は存在するのか?」(Kann es christliche Herren geben?)という論文を書きました。とても刺激的な内容の論文でして、いわばレーヴィットはそこで現代ヨーロッパ社会全体に対する痛烈な批判を繰り広げているわけです。

 

 レーヴィットによりますと、ヨーロッパ社会とはすなわち「キリスト教的紳士を人間の最高の理想像とする社会である」と定義することができる。それならば、その「キリスト教的紳士=Christliche Herren」は聖書の中に存在するのか?とレーヴィットは改めて問うのです。その答えは痛烈な皮肉です。レーヴィットは「それは聖書の登場人物の誰にも当てはまらない。主イエス・キリストをはじめとして、ペテロも、パウロも、使徒たちも、旧約の預言者たちも、詩篇の詩人たちも、全て、ヨーロッパ社会が尊んでいる“キリスト教的紳士像”とは程遠い存在である」と語っています。そしてさらにこう語っています。「いや待て、ただ一人だけ存在する。それはポンテオ・ピラトである」と。民主的な手続きを踏んで、紳士的に、法的に、そして自分の手を汚さずに、主イエスの十字架刑を決定したローマの総督ポンテオ・ピラトこそ、近代ヨーロッパ人が最高の理想的人間像として崇める「キリスト教的紳士」そのものではないかとレーヴィットは語っているのです。

 

 つまり、レーヴィットによれば「現代ヨーロッパ社会とはすなわち、ポンテオ・ピラトを最高の理想像とする社会のことである」と結論づけられるのです。そういたしますと「現代ヨーロッパはキリスト教社会でさえありえていない」という結論になるわけでございまして、これはレーヴィットの、非常に痛烈で本質的な、卓越した文化批判であると言えるのではないでしょうか。

 

 そこで、今朝の御言葉が私たち一人びとりに突き付けている問いは「我等は何処に立つのか」という問いです。あなたはどこに立っているのか?。弟息子の立場に立っているのか、それとも兄息子の立場に立っているのか?。私たちは十字架の主イエス・キリスト、すなわち、兄息子と弟息子をどちらも「かけがうのないわが子」として愛したもう神の愛を抜きにしては、水平的な価値観にしか生きられえない者たちなのではないでしょうか。もしそうなら、私たちもまたいつでも、どこでも、簡単に、ポンテオ・ピラトになっているのではないか。

 

 我等は何処に立つのか?。私たちが真に、いつも立つべきところ、それは十字架の主イエス・キリストの限りない愛と赦しの恵みです。私たちのために、私たちの罪の重みも含めて、全てを贖い取って下さった十字架の主イエス・キリストの恵みに立つときにのみ、私たちははじめて、水平的な次元だけではなく、神との生きた関係性という垂直軸を基礎とした、新しい自由の生活をなしうるからであります。ただ十字架の主イエス・キリストの恵みにのみ、私たちがポンテオ・ピラトではなく、真のキリスト者として、キリストの弟子、神の僕として、真の自由の内に、心を高く上げて信仰の道を歩んでゆくことができるのです。

 

 「(31)すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。(32)しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。まさにこの喜び、この祝宴に、私たち一人びとりが、ただ十字架の主イエス・キリストの贖いの恵みによって、招き入れられているのです。祈りましょう。