説    教           詩篇332021節  ルカ福音書151124

                 「父の愛の譬」 ルカ福音書講解〔152

                 2023・01・22(説教23041996)

 

 「(11)また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。(12)ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。(13)それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。(14)何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた」。

 

 ルカ伝1511節以下に記された主イエスによるこの一連の譬話は、いわゆる「放蕩息子の譬」として広く知られているものです。実際に私たちは先週の礼拝においては放蕩息子の側に焦点を当てての譬話を読み解いて参りました。そこで今日はもうひとつ別の方向からこの譬話に焦点を当ててみたいと思うのです。それは「父の愛の譬」としての視点からであります。

 

 ところで、私たち日本人は、特に日本のキリスト者は、本当に真面目で品行方正な人が多いものですから(事実そういう人ばかりなのですが)、キリスト教と言いますと、それは真面目でいささか堅苦しい「道徳的宗教」であると、そのように無意識的に理解されている向きがございます。いわゆるピューリタン的な道徳主義的なキリスト教という性格を、日本のキリスト者たちは意識的にも無意識的にも持っているわけでありまして、これは良いとか悪いとかの問題ではなく、日本の教会、特にプロテスタント教会の持つひとつの動かしがたい事実だと思うのです。

 

 そこで、私たち日本の、特にプロテスタント教会に連なるキリスト者たちにとって、ひとつの大きな問題は、聖書が語る「悔改め」をすぐに「反省」として理解してしまうことではないでしょうか。つまり「悔改め」と聞くと、それは「反省」のことだと私たちは勝手に思いこんでいるのではないでしょうか。実は聖書が語る「悔改め」は「反省」とは根本的に意味が違うのです。どういうことかと申しますと、私たちが「反省します」と言うとき、その主格(主体)は自分自身なのです。つまり反省というのは私たちの心の内部で起こることであり、言い換えるなら、私たちの心の状態のことをさすわけです。

 

 これに対して、聖書が「悔改め」と言うとき、その主格は私たちではなく主なる神ご自身なのです。つまり、聖書が語る「悔改め」とは、私たちの心の内部の状態のことなどではなく、私たちを限りなく愛し、私たちをそのあるがままに受け止め、全ての罪を赦して下さる父なる神の愛、それが「悔改め」の主語なのです。だから「悔改め」とは常に動詞の形で語られます。そこには、私たちが自分自身を主とする生活から向きを変えて(方向転換して)父なる神に立ち帰るという明確な動きがあるからです。存在の変化と言ってもよいかもしれない。ルターの言葉で申しますなら、聖書が語る悔改めとは「私たちが不断に自分自身を主なる神の御手に投げかけること」です。

 

 そこで、私たちが改めて今朝のルカ伝1511節以下の譬話を読んで参りますと、そこに明確に記されているものは、なるほど「放蕩息子の譬」であるには違いないのですけれども、それ以上に「父の愛の譬」である、ということがわかるのではないでしょうか。つまり、ルカ伝1511節から32節まで続いているこの一連の譬話の主格(主体)は父なる神なのであって、私たちではないのです。そのことがはっきりとわかるのが今朝の御言葉の20節以下です。

 

(20)(弟息子は)そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。(21)むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。(22)しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。(23)また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。(24)このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった」。

 

 もしも放蕩息子が故郷に戻ったとしても、そこで一日千秋の思いで弟息子の帰りを待っていてくれる父の存在がなかったとしたなら、この物語りそのものが成り立たなくなるのです。もっと言うなら、たとえこの弟息子が放蕩の旅に出ることなく父の家に残っていたとしても「放蕩息子の譬」は語れませんが「父の愛の譬」は成り立つのです。ということは、この一連の譬話の中心は(主語は)「父なる神の愛」にあるのです。事実、この父親は、愛する弟息子が遠い外国に旅立ったその日から、それこそ一日千秋の思いで、彼の帰りを待っていてくれたのでした。そのようなある日、地平線のかなたに一人の人影が現れました。父はそれを見るなり「あれは私の息子だ」とわかりました。

 

 それで、父親は矢も楯もたまらずに走って行きまして、ぼろを身にまとった弟息子の首を抱いて「よくぞ帰って来てくれた。こんなに嬉しいことはない」と言ったのでした。弟息子はと申しますと、かれは故郷に戻る道すがら、心の中で何百回も反復していた詫び言葉を言おうとします。事実、言いかけたのでした。21節をご覧ください。「(21)むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』」。ところが、父親は彼のその詫び言葉を遮るようにして言ったのです。22節以下です。「(22) しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。(23)また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。(24)このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった」。

 

 ここで私たちが心に留めたいのは24節の御言葉です。「(24)(父親は言った)『このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった」。実は、この24節の父親の言葉は不思議な言葉ではないでしょうか?。弟息子は死んだわけではないのに「この息子は死んでいたのに生き返った」と父親が語っていることは、いささか不自然なように私たちには思えるのではないでしょうか。そこにはどのような意味が隠されているのでしょうか?。

 

 実は、この24節の御言葉の背後にあるものは、主イエス・キリストの十字架による、私たちの罪の贖いと復活の出来事なのです。私たちは自分が罪人であるという自覚さえないまま、神の御前に(神の目には)放蕩息子のような生活をしている存在なのです。そのような私たちのために、神は御子イエス・キリストの十字架による唯一の救いの道を開いて下さいました。今朝あわせてお読みした旧約聖書・詩篇3320節以下にこのように記されています。「(20)われらの魂は主を待ち望む。主はわれらの助け、われらの盾である。(21)われらは主の聖なるみ名に信頼するがゆえに、われらの心は主にあって喜ぶ」。

 

 ここでは、主なる神が私たちを限りなく愛し、私たちのために永遠の救いの御業を成し遂げて下さったことが記されています。そのために、神は御子イエス・キリストの十字架の御苦しみと死と葬りという「非情なる手段」をもって、私たちを愛し受け止めて下さいました。そして天の御国における聖徒たちの永遠の喜びの祝宴に、私たちをあるがままに招いて下さり、永遠の生命の糧を、聖なる公同の使徒的なる教会を通して、豊かに与えて下さるのです。いま私たち一人びとりが、十字架の主イエス・キリストによって、贖われ、救いへと入れられ、永遠の御国に国籍を持つ者として、歴史の中を歩む神の僕とされているのです。祈りましょう。