説    教        出エジプト記101617節  ルカ福音書151124

                 「放蕩息子の譬」 ルカ福音書講解〔151

                 2023・01・15(説教23031995)

 

 「(11)また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。(12)ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。(13)それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。(14)何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた」。

 

 主イエス・キリストはいわゆる「放蕩息子の譬え」をもって、私たち全ての者に救いの福音をお語りになりました。この譬話はかなり長いものですので3回に分けて学んで参りたいと思います。そこで、今日の説教には「放蕩息子の譬」という題をつけました。まさしくここに描かれているものは、父の家から離れて放蕩三昧に明け暮れた一人の青年の物語です。「ある人に、二人の息子があった」と主イエスは語り始めたまいます。ところが、その弟息子のほうは、父親と一緒にいることが窮屈で鬱陶しくて仕方がなかった。それで、ある日この青年は父親に「父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください」と言いました。

 

 要するに彼は、父親が死んでから受けるべき財産分与を、いま自分に対してしてくれと頼んだわけです。これはようするに、父親を心の中で亡き者にしてしまっているわけです。ちょっと砕けた言葉で申しますなら「親父なんかより金のほうが大事だ」と言っているわけです。父親を死んだ者として扱い、多額の遺産を生前分与してもらって、どこか遠い外国に行って自分の欲望の赴くまま、好きに暮らしてみたいと願ったわけです。そして父親はどうであったかと申しますと、父親には遠望熟慮がありました。そうか、それほど言うのならお前たちにあげるべき財産を生前分与してやろうと、こう申しまして、父親は二人の息子たちに同じように財産を分け与えてくれたのです。

 

 喜んだのは弟息子でした。親父なんかチョロいもんだ、俺の言うがままに財産を分与してくれた。たちまちその財産をすべて金に換えまして、かねてより計画しておりましたように、堅苦しい父の家を離れて、彼は遠い外国に行き、そこで好き放題な生活に明け暮れたわけであります。若いからある程度は無茶なこともできますし、金に不自由はありませんから毎日遊んで暮らすことができる。その金を目当てに悪い友達が寄って来てたかる。毎日毎晩、飲めや、食えや、遊べやの、放蕩三昧の生活をしておりましたところが、やがて肝心な金がだんだんと残り少なくなってまいりました。あたりまえですね。すると、それまであれほどちやほやとして寄り付いてきていた悪い友達がだんだん離れてゆくようになる。金が足りないものですから放蕩三昧の生活もできなくなる。気が付いてみますというと、遠い異国の地で、なんと彼は一文無しの乞食にまで落ちぶれてしまったわけです。

 

 そうなりますと、世間の風ほど冷たく非情なものはないわけでありまして、この異国の乞食の青年に誰も見向きもしなくなりました。働かなくては食べていけませんから、どんな仕事でもしますと言いますと、なんとユダヤ人の彼に豚を飼う仕事が斡旋されました。今朝の御言葉の15節以下をご覧ください。「(15) そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。(16)彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった」。豚はユダヤ人にとって触るのも汚れるとされていた動物です。それを飼う仕事さえも、背に腹は代えられませんからせざるを得なかったわけです。彼は豚の食べる豆で飢えを満たそうとさえ思い詰めました。そこで初めて気が付いたことがありました。それは、故郷にいる父親のことでした。

 

どうぞ17節以下をご覧ください。「(17)そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。(18)立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。(19)もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』」。特に17節には「そこで彼は本心に立ちかえって…」と記されています。これは人間として大切なこと、人間を真に人間たらしめ、人生を真に人生たらしめる大切なことに、ようやく気が付いたという意味の言葉です。一刻も早くお父さんの待つ家に帰ろう、そしてお父さんに心からお詫びしよう、そうしなければ、自分は死んでも死にきれないと、彼はそのように思ったのでした。

 

 さて、故郷ではどうであったかと申しますと、弟息子が家を出たその日から、父親は毎日、戸口のところに立って、彼の帰りを待ちわびていたわけであります。すると遠目にもはっきりとわが子だとわかる人影が現れた。もう喜んで、この年おいた父親は弟息子のもとに走っていきまして、そして今朝の御言葉の20節にありますように「(20)まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した」のでした。これは、この弟息子に対する限りない父の愛を示しています。彼は弟息子に駆け寄って彼の首を抱いてその帰還を喜んだのでした。弟息子は父親に、故郷に帰る途中で心の中で何百回も反復していた詫び言葉を言おうとしましたが、父親はそれを遮って彼に言いました。「何を言うのだ、おまえは大切な、かけがえのない私の息子だ。よく帰って来てくれた。これ以上嬉しいことはない」と。

 

 さて、この譬話はなにを私たちに語っているのでしょうか?。ここには様々な登場人物が現れてきますし、様々な出来事が起こりますので、そのひとつひとつについて意味を持たせて解き明かそうとする方法が昔から試みられてきました。それは間違いではないと思いますが、しかし実は、今朝のこの「放蕩息子の譬」はただ2つの単純な事実へと私たちを導くものです。それは第一に「あなたも神の御前では放蕩息子である」という事実、第二に「神はこの譬話の父親のように、あなたが家に帰るのをいつも待っておられる」という事実です。

 

 私たちもまた、否、私たちこそ、一人の例外もなく、罪によって神から離れてしまったにもかかわらず、そこにこそ人間としての本当の自由がある、本当の幸福があると、心得違いをしている者たちなのです。私たちの罪の本当の恐ろしさは、私たちに自分がどこに向かっているのか、人生行路を見失わせ、結果的に滅びへと至らせることにあります。この弟息子にとって幸いであったのは、彼がそのような放蕩の旅路の途上において「本心に立ち帰る」ことができたことです。それは、ギリシヤ語の言葉を直訳するなら「歩みの向きを変えること」です。人生の方向転換をすることです。自分中心の放蕩三昧の旅路から離れて、いつも私たちの帰りを待っていて下さる父なる神へと方向転換することです。それを聖書では「悔い改め」と言うのです。

 

 大切なことは、私たちが悔い改めて父なる神のもとに立ち帰るなら、神は必ず私たちを最も大切なわが子、かけがえのない「あなた」として抱きとめ、その帰還を何にもまして喜んで下さるかただということです。そしてルターは95箇条の提題において、特にその第1条において、こう語っています。「主にして救い主なる神が「汝ら悔改めよ」と語りたもうたとき、それは我らの全生涯が絶えざる悔い改めの連続であることを求めたもうたのである」。この「悔い改め」という言葉を「神への立ち帰り」と言い換えると、それはまさに今朝の「放蕩息子の譬」に直結するのではないでしょうか。「主にして救い主なる神が「あなたは私のもとに立ち帰りなさい」と語りたもうたとき、それは我らの全生涯が絶えざる「神への立ち帰りの連続」であることを求めたもうたのである」。祈りましょう。