説    教         エゼキエル書183132節  ルカ福音書15810

                 「翻りて生きよ」 ルカ福音書講解〔150

                 2023・01・08(説教23021994)

 

 今朝、お読みしました旧約聖書のエゼキエル書第1831節に、このようにございました。「(31)あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。(32)わたしは何人との死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。

 

 ここにとても印象的な言葉が現れて参ります。32節に「それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」とあることです。これは紀元前6世紀のイスラエルの預言者エゼキエルが、バビロン捕囚という未曽有の苦難の中にあったイスラエルの人々に対して宣べ伝えた神の言葉です。この「翻って生きよ」とは「あなたは罪の内に滅びてはならない。むしろ、あなたは向きを変えて(一転して・翻って)キリストに寄り頼む者になりなさい」という意味の言葉です。つまりこれは、悔改めの喜びと幸いへと私たちを導く神の言葉なのであります。

 

 そこで私たちは改めて、今朝のルカ伝158節以下の御言葉に心を留めたいと思います。「(8)また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。(9)そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。(10)よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。

 

 この御言葉は先週の「百匹の羊の譬え」に引き続いて主イエスがお語りになったもので「十枚の銀貨の譬え」と呼ばれているものです。「ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば」と主イエスは言われるのです。この「女」と訳された言葉は若い女性をあらわすギリシヤ語です。主イエスはここで「もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか」と言われるのです。

 

なぜ銀貨十枚が揃っていることが彼女にとってとても大事なことだったのでしょうか?。どうして9枚ではいけなかったのでしょうか?。それは、当時のイスラエルにおいて、十枚の銀貨を持っていることは、その女性が一人前の女性であることの社会的な証であったからです。つまり、イスラエルの女性たちは働きながら少しずつ銀貨を貯蓄したわけです。そしてそれが十枚貯まりますと、それを鎖でつなげてネックレスにしたわけです。だから9枚ではいけなかったのです。十枚揃っていることが大切だったのです。

 

 ですから、せっかく貯めた十枚の銀貨のうち、その一枚が無くなったなら、それこそ主イエスが今朝の御言葉で「彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか」と言われたように、その女性はそれこそ必死になって失った銀貨を探したのです。そして、ついにその無くした銀貨が見つかったなら、彼女はもう大喜びで「女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言う」だろうと主イエスは言われるのです。そういうことが実際によくあったのだろうと思うのです。その喜びの様子を主イエスは、一人の罪人が悔改めて神に立ち帰った時の、天における大きな喜びに譬えておられるわけです。

 

 私も5年ほど前に似たような経験をいたしました。ドイツで50年以上もかかって編纂された“TRETheologische Realenzyklopädie”という神学の百科事典があります。全部で30巻ありまして、新本で揃えるとたぶん100万円は下らないものです。ところがある日、懇意にしているドイツの古書店から、日本円にして送料も含めて10,000円ぐらいで送れるけれども買わないか?という夢のようなメールが来ました。100万円以上の本が一万円で買えるというのです。ただしそのTREは最後の2冊が(つまり29巻と30)無いというのです。私は「それでも良いからすぐに送ってほしい」とドイツにメールしました。結果的に送料を含めて9,000円ぐらいで買えました。そういうわけで無事に高根の花だったTREが手に入ったわけですが、いざ読みはじめてみますと、調べたいことに限って最後の2冊が必要になるのです。特に最終の30巻は総索引ですから絶対に必要なものなのです。それで、私は改めてその古書店に連絡して、その無かった2冊を探して送ってほしいと依頼しました。そのような経緯があって、いまTREは完全な形で私の手元にあるわけです。

 

 今朝の御言葉の女性にとっても、無くしたたった1枚の銀貨がどうしても必要なものだったに違いありません。それが無ければ全体が成り立たない、成り立たないばかりではなく意味をなさない、そういう大切な一枚のデナリ銀貨であったに違いないのです。言い換えるなら、それは彼女にとって「無くてならないもの=かけがえのないもの」でした。それと同じように、主イエスは私たちにはっきりと言われるのです。「(10)よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。この世界の、人間的な価値基準で申しますなら「一人の罪人」というのはほとんど価値のないものかもしれません。否、価値がないどころか、それは不必要なもの「無くてもよいもの」のように思われるかもしれません。しかし、主イエスの価値基準は違うのです。主なる神のお考えは私たちのそれとは大きく異なるのです。

 

 たった一枚のデナリ銀貨を一生懸命に探していた女性にとって、それが見つかった時の喜びは限りなく大きいのです。それと同じように、否、それにも遥かにまさって、たった一人の罪人が(神から離れていた人が)真の神に立ち帰って生きるなら、主イエス・キリストの十字架による罪の贖いと永遠の生命に与る者とされるなら、そのとき天においてこそ絶大なる喜びがあるのだと主イエスははっきりとおっしゃるのです。

 

 そこでこそ私たちの心に改めて響き渡るのが、先ほどのあのエゼキエル書1832節の御言葉です。「それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。この「翻って」というのは、十字架の主イエス・キリストに向かって飛び込むことを意味します。私たちの身を主イエスに投げかけることです。主イエスに自分を明け渡すことです。それが「翻って生きる」ことの意味なのです。

 

そして、このエゼキエル書の御言葉には限りない祝福の約束が示されています。それは「もしあなたが十字架の主イエス・キリストに自分を明け渡すなら、そのときあなたは永遠の生命に覆われるであろう=キリストによる贖いの恵みが、あなたの人生全体を祝福して、あなたを永遠の御国へと導くであろう」という約束です。いま、ここに集う私たち一人びとりに、主は聖霊によって親しく、今朝の2つの御言葉(旧約聖書と新約聖書の御言葉)による、この限りない祝福の約束を告げていて下さるのです。祈りましょう。