説    教              イザヤ書4011節   ルカ福音書1517

                 「天にある喜び」 ルカ福音書講解〔149

                 2023・01・01(説教23011993)

 

 「(1)さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。(2)するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。(3)そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、(4)「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。(5)そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、(6)家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。(7)よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう」。

 

 今朝の御言葉であるルカ伝151節以下には「百匹の羊の譬え」と呼ばれる有名な譬話が記されています。たぶんこれは聖書の中でもっとも有名な譬話の一つではないかと思うのです。あるところに、百匹の羊の群れがありました。その中からある日、一匹の羊が「いなくなった」つまり、群れの中から迷い出てしまったのでした。それを知った羊飼いはどうしたかと申しますと、彼は99匹の羊を野原に残したまま、そのいなくなったたった一匹の羊を探し歩いたというのです。今朝の4節に記された「いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか」という主イエスの御言葉は、この羊飼いが非常に大きな犠牲と労力と時間を費やして、その「いなくなった一匹の羊」を探し、そしてついに見出したことを示しています。

 

 そしてこの羊飼いは、その「いなくなった一匹の羊」を見つけてどうしたかと申しますと、彼はその羊を自分の肩に乗せて「(6) 家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言った」と主イエスはお語りになられたのです。つまり、この羊飼いにとって、迷い出たたった一匹の羊が見つかったことこそ、すべてにまさる大きな喜びだったのです。だから村中の人々にその喜びのお裾分けをせずにはおれなかったのです。そしてこの譬話の最後の7節以下において主イエスははっきりとこうおっしゃいました。「(7)よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう」。

 

 そもそも主イエスがこの譬話をお語りになった契機となった出来事は、今朝の御言葉の1節以下にありますように「取税人たちや罪人たち」すなわち古代イスラエルにおいて罪人(律法において汚れているとされた人々)の代名詞と目された人々が主イエスのもとにやって来て、主イエスが語られる御言葉に熱心に耳を傾け始めたことでした。この様子を見たパリサイ人や律法学者たちは「この人(主イエス)は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言って非難したのです。彼らのこの発言の背後には、主イエスのもとに大勢の民衆が集まっていたことに対する嫉妬心と敵愾心がありました。だからこそ彼らは、主イエスの言動を虎視眈々と観察して、もし律法違反が認められたならすぐに処刑してしまおうと企んでいたのでした。

 

 まさにそのような虎視眈々たる彼らの目に、大勢の「取税人や罪人たち」が主イエスのもとに集まって来て、主イエスが語られる説教を熱心に聴いている様子が映ったものですから、いわばそこに主イエスに対するゴルゴタの十字架への道のカウントダウンが始まったと言ってよいのです。しかし主イエスは彼らの悪だくみをお知りになりながらも、少しも彼らを恐れたり隠れたりなさることはなく、かえって律法学者やパリサイ人らに今朝の「百匹の羊の譬え」をお語りになったのでした。それはなぜでしょうか?。それは、主イエスは古代イスラエルで「罪人」と呼ばれていた人々はもちろんのこと、律法学者やパリサイ人たちも含めて、全ての人が真の神に立ち帰り、救いを与えられ、永遠の生命を受けることを望んでおられたからです。だからこそ主イエスはそこに集まった全ての人々に「百匹の羊の譬え」をお語りになったのです。

 

 言い換えるなら、こういうことです。ここに集うている私たちも含めて、神の御前に人間はみな「迷い出た一匹の羊」なのです。もしも効率という観点から見るなら、残った99匹のほうが大事なのですから、迷い出てしまった一匹の羊など、無視すればそれで済むことでした。しかし神はそういうおかたではないのです。まことの神は、迷っていない99匹の羊を野原に残してまでも、迷い出てしまったたった一匹の羊を、それこそ命がけで捜し歩いて下さるかたなのです。そしてその一匹が見つかったなら、全ての人々と共に喜んで下さるのです。「わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから」。

 

 そして主イエスは私たち全ての者たちにはっきりと語りたまいます。今朝の御言葉の7節です。「(7)よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう」と。群れから離れ、迷い出てしまったたった一匹の羊が見つかってさえ、そこには村中を挙げての大きな喜びがあるではないか。それならば、たった一人の罪人が(神から離れてしまった人が=私たち一人びとりが)悔改めるなら、すなわち、父なる神のもとに立ち帰って生きるならば、そこには「悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう」。ここで「大きな喜び」と訳された元々のギリシヤ語は「想像もできないほどの限りない喜び」という意味の言葉です。神の御前にたった一人の罪人が立ち帰って生命を受けるなら、死んでいた者が生き返ったならば、そこには天においてこそ、想像もできないほどの限りない喜びがあるのです。

 

 新しい主の年(Anno Domini)2023年を迎えまして、私ひとつの思いを心に抱いています。牧師として、伝道牧会の務めを果たすこと、教会形成のわざに邁進することは、普通の信徒のかたが想像するよりも、遥かに多くの苦しみや試練を経験することです。正直に申しまして「もう自分は牧師を続けてゆくことができないのではないか」と思うこともしばしばであります。しかし、そのようなネガティヴな思念が心に生じるたびごとに主イエスの御声が響いて参ります。「罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう」。まさにその「天にある喜び」に励まされ、打ち砕かれ、新たにされ、力と希望と勇気と平安を与えられて、新しいこの2023年もまた、長老会と共に、そして皆さんと一緒に、真の教会形成のわざに励んで参りたいと思います。まさにその主にある志をもって「天にある喜び」にお応えしてゆく、天の「想像もできないほどの限りない喜び」に呼応して伝道牧会に励んでゆく、そのような年でありたいと思います。祈りましょう。