説    教             イザヤ書967節   マタイ福音書2712

                 「神の御子の降誕」 クリスマス

                 2022・12・25(説教22521992)

 

 「(7)そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、星の現れた時について詳しく聞き、(8)彼らをベツレヘムにつかわして言った、「行って、その幼な子のことを詳しく調べ、見つかったらわたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」。(9)彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。(10)彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。(11)そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。(12)そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の国へ帰って行った」。

 

 今朝の御言葉27節以下では、一見したところ、幼子イエスの殺害を企んでいるユダヤの王ヘロデが主人公であるかのように見えます。ヘロデは東方の博士たちを騙して、キリストの生まれる場所を探らせようました。そしてキリスト殺害計画の悪だくみを隠すために「見つかったらわたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」と申しました。もちろん、ヘロデには幼子イエスを「拝みに行く」つもりなどは全くなく、ただ自分だけがユダヤの王であり続けるために、邪魔者だと感じた幼子キリストを抹殺するつもりでいたのです。

 

いわばこのように、私たちのこの歴史的現実世界は、神の御子イエス・キリストをお迎えするのに全く相応しい場所などではありませんでした。むしろそれは、私たち人間の罪と、罪の醸し出すあらゆる悪と悲惨が満ち満ちている場所でした。私たちはクリスマスと聞くと、クリスマスツリーや、光あふれるオーナメントや、ページェントやキャロングなど、華やかで煌びやかで楽しい情景を思い浮かべます。しかし最初のクリスマスは、私たち人間の罪が生み出した深い暗黒の中での出来事でした。そこには博士たちをベツレヘムへと導いた星の輝き以外にいかなる光もなく、ベツレヘムの馬小屋を果てしの無い人間社会の虚無だけが、つまり果ての無い暗黒だけが覆っていたのです。

 

 つまり、クリスマスは、神がその最愛の独子を、まさに私たちの歴史的現実世界の暗黒のただ中に贈って下さった出来事です。言い換えるなら、御子イエス・キリストは、私たちが正しく清く相応しいから、私たちのもとに来て下さったのではありません。その逆です。私たちの中に、神の御子の御降誕をお迎えするいかなる正しさも、清さも、相応しさも、全く無いにもかかわらず、否、それだからこそ、主イエス・キリストは、私たち全ての者の救い主として、この歴史的現実世界のただ中に、お生まれ下さったのです。

 

 19世紀のデンマークの哲学者ゼーレン・キェルケゴールはクリスマスの出来事についてこう語っています。「もしもキリストが、煌びやかな王宮に、王子としてお生まれになったとしても、全能の神が朽つべき人間になったという一事において、それは限りない汚辱であったであろう。しかるに御子イエス・キリストは、私たち全ての者の救い主として、世界の最も暗く、低く、寒く、悲惨な場所に、つまり、あのベツレヘムの馬小屋に、お生まれ下さったのだ」。

 

 星の光に導かれて、東方からはるばると旅をして、ベツレヘムの馬小屋にやってきた博士たちは、今朝の御言葉の10節以下を見ますと「黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた」と記されています。私たちはこの「黄金・乳香・没薬」の意味がわかっているでしょうか?。実はこれは、古代のイスラエルにおいて、高貴な人が死んだときに用いられる「葬式三点セット」でした。極論するなら、東方の博士たちは幼子イエス・キリストに対してまさに「縁起でもないもの」をささげたのです。なぜでしょうか?。その理由は、博士たちは旧約聖書の御言葉と聖霊によって、まさにこの御子イエス・キリストこそ、全世界の全ての人の罪を負うて十字架の道を歩まれる「十字架の主」であられることを明確に言い表したからです。つまり「黄金・乳香・没薬」は博士たちの信仰告白でした。

 

 それならば、いままさに私たち一人びとりも、彼らの信仰告白に連なる者たちとならせて頂いているのではないでしょうか。言い換えるならこういうことです。クリスマスの華やかで煌びやかで楽しい情景の背後に、私たちは、私たちの測り知れない罪を贖う唯一の十字架と、その十字架におかかりになった主イエス・キリストのお姿を見るのです。それは、私たちの罪の贖いのために、御自身の全てを献げ尽くして下さった神の御子のお姿であり、言い換えるなら、それこそが神ご自身のお姿なのです。クリスマスの煌びやかさと楽しさの中で、ソプラノが「神は愛なり」と歌うとき、同時にあたかも通奏低音のごとくに、主の十字架から、ゴルゴタの丘から「神は愛なり」と歌うバスの響きを、私たちは聴き漏らしてはならないのです。

 

 最後に、今朝の御言葉の12節には「そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、(博士たちは)他の道をとおって自分の国へ帰って行った」と記されています。それと同じように、私たちもまた「他の道をとおって」自分の家に帰る者たちでありたいのです。どういうことかと申しますと、私たちはこのクリスマス礼拝から新しく人生の旅路へと遣わされているからです。それは、ヘロデの道をかなぐり捨てて、東方の博士たちと共に、御降誕と十字架の主イエス・キリストを「わが主・救い主」と信じ告白する者として歩んでゆく新しい道です。クリスマスとは「キリスト礼拝」という意味ですが、真のキリスト礼拝を献げた私たちは、もはやヘロデの道を二度と歩むことはしないのです。

 

 私たちは「黄金、乳香、没薬」を献げた博士たちと共に、御降誕と十字架の主イエス・キリストを讃美告白しつつ、主に贖われ、救われ、真の自由と平安を与えられ、御国に国籍を持つ者として、心を高く上げつつ、キリストに贖われ、救われた者の感謝と喜びの道を歩んて参ります。まにその信仰の歩みにおいてこそ、いつもまっすぐな、弛みない、忠実な主の僕であり続けて参りたいと思います。クリスマスおめでとうございます。