説    教           歴代志下71416節   ルカ福音書142835

                 「神の御子の来臨」 ルカ福音書講解〔148

                 2022・12・18(説教22511991)

 

 「(28)あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、それを仕上げるのに足りるだけの金を持っているかどうかを見るため、まず、すわってその費用を計算しないだろうか。(29)そうしないと、土台をすえただけで完成することができず、見ているみんなの人が、(30)『あの人は建てかけたが、仕上げができなかった』と言ってあざ笑うようになろう」。今朝の御言葉であるルカ伝1428節以下は、このような譬話によって始まっています。

 

資金計画が杜撰なままで、大邸宅を建てようとした人がいたというのです。案の定、その邸宅は建築途中で資金が尽きて完成しなかった。「土台を据えただけで完成することができなかった」のです。すると、その未完成の邸宅は、そこを通りかかる全ての人たちの物笑いの種になったと言うのです。これは現代の日本においてもしばしば見聞きする出来事なのではないでしょうか。

 

 さらに続いて31節以下に主イエスは、戦争の準備をする王の譬えをお語りになりました。「(31)また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えるために出て行く場合には、まず座して、こちらの一万人をもって、二万人を率いて向かって来る敵に対抗できるかどうか、考えてみないだろうか。(32)もし自分の力にあまれば、敵がまだ遠くにいるうちに、使者を送って、和を求めるであろう」。

 

こちらは単なる建築よりも大きな、国家の存亡にかかわる話です。自分の国に一万人の兵力しかいない王は、相手の国の二万人の兵力に対抗できるかどうか、綿密に作戦を練るであろうと主イエスは言われるのです。そしてその結果、勝算がないとわかったなら、早々に「使者を送って、和睦を求めるであろう」と言われるのです。

 

 これら2つの譬えの最後に、主は私たち一人びとりにこうおっしゃいます。33節以下です。「(33)それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。(34)塩は良いものだ。しかし、塩もききめがなくなったら、何によって塩味が取りもどされようか。(35)土にも肥料にも役立たず、外に投げ捨てられてしまう。聞く耳のあるものは聞くがよい」。

 

 そこで、今朝のこれら3つの話の枠組みは、一体どういう事柄を私たちに物語っているのでしょうか?。それは大きく分けて2つの事柄だと思います。第一に、圧倒的な力の前には、私たちは知恵と「早期の和解」を求められているということ。第二に、もしも私たちが知恵を持たず、早期和解の機会をも失ったなら、私たちは味を失った塩のようにならざるをえないということです。

 

 では、その「圧倒的な力」とはいったい何でしょうか?。この力を「私たちを救う恵みの権威」と読み替えると、今朝の御言葉の意味がより明確になって参ります。つまりこれは「神の御子イエス・キリストの来臨」をさし示しているのです。どうか考えてみて下さい、神は天地万物の創造主なるかたです。私たちが生きているこの地球は途方もなく広い宇宙の一部分にすぎません。ですから創世記の11節において「はじめに神は天と地を創造された」と語られている神は、この途方もなく広大な宇宙に満ち満ちるものの全てを創造なさったかたです。まさにそのような「天地万物の創造主なる神」を私たちは信じる者たちです。

 

 その神が、その神と本質を同じくしたもうかたが、神の御子イエス・キリストが、一人の幼子の姿で、この歴史的現実世界のただ中に来臨して下さった出来こそクリスマスなのです。この全宇宙万物の創造主なるかたが、ユダヤのベツレヘムの馬小屋の中に、一人の嬰児としてお生まれになったのです。それならば、私たちはその出来事を大きな恐れと感謝をもって受け止める以外にないのではないでしょうか。第二次世界大戦下のドイツの強制収容所において殉教の死を遂げた神学者ディートリヒ・ボンヘッファーは、強制収容所における1945年のクリスマス礼拝の説教(それは彼にとって最後のクリスマス礼拝になったのですが)の中で「この幼子を信じる者は救われるのだ!」と語っています。単純な言葉ですが、これほどクリスマスの本質を鋭く的確に捉えたものはないでしょう。

 

 ベツレヘムの馬小屋、すなわち、この世界で最も低く、暗く、貧しく、寒いところに、天地万物の創造主なる神と本質を同じくしたもうかたが、御子イエス・キリストが、来臨されたのです。信じる者たち全てを救うために。まさにボンヘッファー牧師が語ったように、この幼子を信じる者は救われるのです。

 

 それゆえにこそ、いま私たち一人びとりが神から問われています。「あなたはこの救いの権威に対して、知恵と早期和解を欲しているか?」と。この知恵とは私たちの信仰であり、早期和解とは御降誕と十字架の主イエス・キリストによる贖いの恵みのもとに私たちが堅く立つ者になることです。私たちは神の御子の来臨の恵みを、ただ素直に感謝をもって受けるだけで良いのです。そうではなくて私たちは、資金が無いのに邸宅を建てる人のような愚かなことをしていないでしょうか?。勝ち目のない戦争に兵士たちを駆り出す愚かな王のようになってはいないでしょうか?。私たちはいつも塩の味を保っているでしょうか?。味を失って捨てられるだけの塩になっていないでしょうか?。そのいっさいが信仰にかかっています。まさしく「この幼子を信じる者は救われる」からです。

 

同じルカ伝の225節以下に、当時のエルサレムの大祭司であったシメオンが幼子主イエスに出会ったときのことが記されています。父ヨセフと母マリアは生後8日目の祝福を主イエスに受けさせるために神殿の大祭司シメオンを訪ねました。その時、シメオンは、この幼子こそ、旧約聖書に預言され証されている全世界の救い主キリストであることを聖霊と御言葉によって示されたのです。だからシメオンは讃美と感謝をもってこう語りました。ルカ伝228節以下です。「(28)シメオンは幼な子を腕に抱き、神をほめたたえて言った、(29)「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに
この僕を安らかに去らせてくださいます、(30)わたしの目が今あなたの救を見たのですから。(31)この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、(32)異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります」。

 

 シメオンは何を見たのでしょうか?。彼はまさに幼子イエスに「全世界に対する神の救いの御業」を見たのです。この世界は、この歴史は、そして全人類は、この幼子によって救われるのです。それは圧倒的な救いの恵みの権威なのです。この救いの恵みの権威の前に、もはや私たちの姑息な言い訳や策略はいっさい通用しません。私たちはただ、シメオンや世々の聖徒らと共に膝をかがめ、声を合わせて「主よ、我は信ず。信仰なき我を助けたまえ」と祈り求める以外にないのです。それが私たちがなすべき早期和解の務めです。それが、私たちが地の塩になることです。塩の味を失わないことです。そしていよいよ来週、私たちは讃美と感謝の溢れるクリスマスを共に迎えることになります。祈りましょう。