説    教             申命記1368節   ルカ福音書142527

                 「己が十字架を負うて」 ルカ福音書講解〔147

                 2022・12・11(説教22501990)

 

 「(25)大ぜいの群衆がついてきたので、イエスは彼らの方に向いて言われた、(26)「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。(27)自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない」。今朝のこのルカ伝1425節以下に記されているのは、たいへん厳しいと感じられる主イエスの御言葉です。

 

主イエスの説教を聞いて感動した「大ぜいの群衆」が、大挙して主イエスの後についてきたとき、主イエスはいきなり彼らのほうを振り向いてこう言われたというのです。「(26)だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。(27)自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない」。

 

 つまり、この御言葉は、私たちに「あらゆる人間関係を断ち切ってまでもキリストに従いなさい」という、まことに厳しい要求のように聞こえるのです。あたかも昔の道元禅師や砂漠の修道士アントニウスのように、家族や係累の絆を切り捨ててまでもキリストに従いなさいという、厳しい要求のように聞こえる御言葉なのです。しかし、本当にそうなのでしょうか?。本当に今朝のこの御言葉は、私たちにとって過酷な厳しい御言葉なのでしょうか?。

 

 そもそも、なぜ主イエスの後に「大ぜいの群衆」がついてきたのでしょうか?。この思いがけない状況に、いちばん喜んだのは十二弟子たちでした。エルサレムに向かう道すがら、立ち寄った町々村々で、石を投げられたり、呪いの言葉を投げかけられたり、酷い目に遭い続けてきた弟子たちでした。そもそも弟子たちが主イエスに従ってエルサレムに行く決心をしたのは、主イエスがエルサレムでユダヤの王として旗揚げをなさると確信していたからでした。そして、主イエスがユダヤの王になられたなら、自分たちもまた重臣に取り立てて頂けるだろう。大出世ができるに違いない。偉くなれるに違いない。そう思えばこそ弟子たちは、主イエスの後に従ったのです。

 

ところが、どうも状況は彼らの思惑とは逆の方向に進んでいるように思えたことでした。エルサレムへと向かう道すがら、町々村々の人々に歓迎されるどころか、石もて追われるような酷い目に遭い続けてきたので、弟子たちは「本当にこのかた(主イエス)はユダヤの王様になれるのだろうか?」と疑い始めていたのです。まさにそのような折しも、ある日突然、おびただしい群衆が主イエスの後について来たのを目にしたわけですから、弟子たちの喜びようは大変なものでした。「ああ良かった、やはりこのかた(主イエス)はユダヤの王様になるかたに違いない。私たちはこのかたにお従いして間違っていなかったのだ」と安心したわけです。

 

 それなのに、主イエスはこの群衆のほうを振り向かれて「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。(27)自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない」と言われたのです。これには弟子たは慌て、かつ驚いたことでした。もちろん、そう言われた群衆は、あたかも潮が引くように去っていったわけです。あとにはいつものように十二弟子だけが残ったのです。

 

 人間的な価値観で言うなら、主イエスはみすみすチャンスを逃したわけです。政治の世界、選挙の実例に例えるなら、大票田をみずから放棄したようなものです。「主よ、なんてもったいないことをしたんですか!」と主イエスに食って掛かった弟子もいたかもしれません。手なづけて従わせるべき群衆を、厳しい言葉でみすみす逃してしまうなんて、どうかしていると弟子たちは思ったことでした。

 

 ここで私たちは改めて、今朝の27節の主イエスの御言葉を心に留めなくてはなりません。「(27)自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない」。主イエスがエルサレムに行かれるのは、ユダヤの王になるためではなく、全ての人の罪の贖いとして十字架におかかりになるためです。主イエスはこの世の王として人々に君臨なさるためではなく「世の罪を贖う神の子羊」として、御自分を献げ尽くして全ての人を救うためにエルサレムに向かっておられるのです。

 

それなら、なによりも十二弟子たちがそれを知らなければならなかったのではないでしょうか?。言い換えるなら、弟子たちにはただ信仰が求められていたのではないでしょうか?。もっと言うなら、あの「大ぜいの群衆」には信仰はありませんでした。あったのはただ功名心のみでした。事実、この同じ群衆がわずか10日の後にエルサレムのヴィア・ドロローサ(悲しみの道)において、十字架を担いでゴルゴタの丘に登りたもう主イエスに向かって、拳を振り上げ、唾を吐きかけ、石を投げ、呪いの言葉を放ったのです。だからこそ主イエスは彼らに言われたのです。「(27)自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない」と。

 

 顧みて、私たちはどうでしょうか?。私たちはいつも、十字架の主のみを仰ぎ、十字架の主に信仰をもってお従いしている者たちであり続けているでしょうか?。それとも、今朝の御言葉の「大ぜいの群衆」と同じように、主イエスに自分の理想像や欲望や功名心を投影して、それを仰いでいるだけのことはないでしょうか?。もしそうならば、私たちはもはや主イエスを信じ仰いでいるのではなく、自分の心を信じ仰いでいるにすぎないのです。それはもはや信仰とは呼べず、その主体はもはや神ではなく私たち自身なのです。

 

 宗教改革者マルティン・ルターは信仰を定義してこう言いました。「信仰とは自分を顧みずして主の御招きに自分を投げかけることである」と。今日は待降節第三主日です。御子イエス。キリストの御降誕の喜びを新たに聴くこの季節にあたりまして、私たちはまさにルターが語るように「自分を顧みずして主の御招きに自分を投げかける」信仰の姿勢が問われているのではないでしょうか。

 

 私の学生時代からの友人に精神科の医者がいます。この人が私に語ったことですが、日本人は何か困ったことが起こるとすぐに自分のせいにする。そして自分はなんてダメな人間なんだろうと思い詰めて絶望してしまうというのです。本当にその通りで、日本人は(もちろん例外はありますが)基本的に非常に真面目で、責任感の強い人が多い、そういう国民性を持っています。そこで「しかし」とこの精神科医は私に言いました。「キリストを本当に信じて生きるということは、たとえ自分に絶望しても、キリストには絶望しないので、そこに最終的な絶望はない、ありえない、という結論になりますよね?」。私は彼のこの言葉を聞いて、ああ、とても良いことを言うなと思いました。

 

 そのとおりでありまして、私たちはたとえ自分自身に対して絶望しても、そこで終わらないのです。キリストに対しては絶望しないのですから、最終的に希望に支えられて生きることができるのです。その「キリストに対する希望」こそが私たちキリスト者の歩みを形作るのではないでしょうか。それならば、今朝の説教題を「己が十字架を負うて」といたしましたけれども、私たちが担う十字架は、キリストが既にあのゴルゴタにおいて担い取って下さった十字架なのです。つまり、私たちに対しては永遠の生命の保証であり、救いのたしかな徴であるところの十字架なのです。それを私たちは自分自身の十字架として担う幸いを与えられているわけでして、そこには私たちの本当の希望があり、自由があり、喜びがあり、そして確かな救いがあるのです。祈りましょう。