説    教            イザヤ書2568節   ルカ福音書141524

                  「神の国の祝宴」 ルカ福音書講解〔146

                 2022・12・04(説教22491989)

 

 「(15)列席者のひとりがこれを聞いてイエスに「神の国で食事をする人は、さいわいです」と言った。(16)そこでイエスが言われた、「ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた。(17)晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのもとに僕を送って、『さあ、おいでください。もう準備ができましたから』と言わせた。(18)ところが、みんな一様に断りはじめた」。

 

 もしも大切な人の結婚式に招かれていながら、式の直前になっていわゆる「ドタキャン」をする人がいたとしたら(それは理由にもよるでしょうけれども、さしたる理由もないのに欠席したとしたら)それはとても失礼なことになるのではないでしょうか。あるいはこういうことを考えてもよいでしょう。今朝の御言葉であるルカ伝1415節には「神の国で食事をする人は、さいわいです」とあります。だからこれは「神の国での喜びの祝宴」のことです。そこに招かれるということは、これ以上の光栄を考えることができないほど光栄なことです。それをドタキャンするというのです。

 

 だからこれは、もし譬えて言うなら、私たちが宮中晩餐会に招かれたにもかかわらず当日の午後になっていきなり欠席するようなものです。否、それ以上の失礼に当たるでありましょう。なぜなら、私たちをそこに招いて下さるおかたは神ご自身だからです。神の御招きを断ることなのです。だから、それ以上の失礼はないのです。それならばその、これ以上ないと言えるほど失礼なことを、私たちは平気でしてしまうではないかと、主イエスは私たち一人びとりにお語りになっておられるわけです。

 

 どうか今朝の御言葉の18節から20節をご覧ください。「(18)ところが、みんな一様に断りはじめた。最初の人は、『わたしは土地を買いましたので、行って見なければなりません。どうぞ、おゆるしください』と言った。(19)ほかの人は、『わたしは五対の牛を買いましたので、それをしらべに行くところです。どうぞ、おゆるしください』、(20)もうひとりの人は、『わたしは妻をめとりましたので、参ることができません』と言った」。

 

 旧日本基督教会時代の私たちの大先輩であって植村正久牧師は、ある説教の中でこの3人の人に触れつつ「最後のヤツは最もふるっている」と語っています。「わたしは妻をめとりましたので、参ることができません」というのは、もはや理由らしい理由にもなっていないと植村牧師は語るのです。土地を買ったから見に行かなくてはならないという者も、10頭の牛を買ったから調べに行かねばならないと言う者も、やはり同じように尊い招きを断る理由にはなっていないのです。それは言い換えるなら、これら3人の人たちは尊い招きに応じるよりも、自分の都合のほうを優先しているのです。いや、さらに言うなら、彼らは尊い招きを断るために自分の都合を言い訳に利用しているだけなのです。

 

 そこで私たちは、今朝の御言葉の続く21節以下を心に留めなくてはなりません。「(21) 僕は帰ってきて、以上の事を主人に報告した。すると家の主人はおこって僕に言った、『いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧しい人、身体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人などを、ここへ連れてきなさい』。(22)僕は言った、『ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席がございます』。(23)主人が僕に言った、『道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。(24)あなたがたに言って置くが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう』」。

 

 自分たちの都合を理由に尊い招きを断った人々に激怒した「家の主人」は、家令たちに命じてこう言ったというのです。「いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧しい人、身体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人などを、ここへ連れてきなさい」。そこで家令たちは出かけて行って、主人の言葉の通りに「貧しい人、身体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人など」を連れてきました。どうか想像して戴きたいのは、思わぬ招きを受けたこれらの人々の大きな喜びです。

 

 西暦325年、520日から619日までの約一か月間、当時の東ローマ帝国領内にあった全世界の教会の代表者約400名を一堂に集めて「ニカイア公会議」が開催されました。その会場となったのは今日のトルコのイスタンブールの南東約100キロにあるイズニック湖の東岸にあるニカイアの聖ソフィア教会でした。そこで今日も全世界の公同教会が等しく告白しているニカイア信条が制定されたわけです。さて、そのニカイア公会議の開会初日にローマ帝国皇帝コンスタンティヌスの臨席のもと、ニュッサの聖グレゴリウスの司式による礼拝が献げられました。そこに集まった人々の多くが迫害による傷を身体に受けていました。目を抉り取られた者もあれば、両手や片足を失った者も少なくありませんでした。コンスタンティヌス帝はその人々の様子を見て、自らの冠を取り外して言いました。「あなたがたが迫害によって受けた傷こそ神の国で輝きを失わないものです。それに較べるなら私のこの冠など何の価値もない」。

 

 さて、まだ空席がたくさんありましたので、家の主人はさらに家令たちに命じて申しますには「(23) 道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。(24)あなたがたに言って置くが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう」。驚くべきことが起こりました。道を歩いている人たちを無理やりにここに連れてきなさいと主人は命じたというのです。この破天荒な命令を受けた家令たちはびっくりしたでしょうが、もっと驚いたのは強制的に連れてこられた人々だったに違いありません。彼らはただ道を歩いていただけです。自分に「神の国の祝宴」に与る資格があるなどとは微塵も思っていなかった人々です。もっと言うなら、この人たちは「神の国の祝宴」に招かれるのに何の相応しさも資格もなかった人たちです。その人たちが招かれたのです。

 

 主イエス・キリストは私たち一人びとりにはっきりと告げていて下さいます。「あなたこそその人々の一人である」と。いや、実は全ての人間存在は、自らの力や相応しさや資格によってではなく(そのようなものは神の御前にはなにひとつありません)ただ恵みと憐みによって選ばれて「神の国の祝宴」に与る者とされるのです。ここにおいて、私たちはようやく気が付きます。私たちが厳粛な二者択一の前に立たされていることを。私たちはどちらを優先させるのでしょうか?。自分の都合(資格や能力や相応しさ)を優先させることでしょうか?。それとも主なる神の恵みと憐みによる無償の招きに従うことでしょうか?。

 

 いま私たちに求められているのは、私たちをあるがままに「神の国の祝宴」に招いて下さる神の恵みに素直に応じる心、すなわち信仰であります。ルターは信仰のことを定義して「自分を顧みずして、ただ招きたもう主のみを見ること」だと語っています。私たちもまた、そのような姿勢においてこそ健やかな主の僕であり続けたいと思います。「自分を顧みずして、ただ招きたもう主のみを見ること」においていつもまっすぐな主の僕であり続けたいと思います。その時、私たちの人生に何が起こるのでしょうか?。それこそ、私たちの人生の全体が「神の国の祝宴」の喜びと幸いのもとにあり続けることです。

 

イザヤ書256節以下の御言葉をもういちど思い起こし、心に留めて終わりましょう。「(6)万軍の主はこの山で、すべての民のために肥えたものをもって祝宴を設け、久しくたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。すなわち髄の多い肥えたものと、よく澄んだ長くたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。(7)また主はこの山で、すべての民のかぶっている顔おおいと、すべての国のおおっているおおい物とを破られる。(8)主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる。これは主の語られたことである」。ここで「この山で」と言われているのは私たち一人びとりの人生のことです。私たちの人生の全体が、絶えず「神の国の祝宴」の喜びと幸いに与るものとされている。だから私たちは新しい一週間も、勇気と幸いと慰めをもって、主の僕として生きて参りたいと思います。祈りましょう。