説    教               箴言2567節   ルカ福音書14711

                  「キリストの謙遜」 ルカ福音書講解〔144

                 2022・11・20(説教22471987)

 

 「(7)(イエスは)客に招かれた者たちが上座を選んでいる様子をごらんになって、彼らに一つの譬を語られた。(8)「婚宴に招かれたときには、上座につくな。あるいは、あなたよりも身分の高い人が招かれているかも知れない。(9)その場合、あなたとその人とを招いた者がきて、『このかたに座を譲ってください』と言うであろう。そのとき、あなたは恥じ入って末座につくことになるであろう。(10)むしろ、招かれた場合には、末座に行ってすわりなさい。そうすれば、招いてくれた人がきて、『友よ、上座の方へお進みください』と言うであろう。そのとき、あなたは席を共にするみんなの前で、面目をほどこすことになるであろう。(11)おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。

 

 今朝のこの主イエスの御言葉は、一見したところ、ありふれた陳腐な処世訓のように感じられるのではないでしょうか。それはこういう例え話です。「もしあなたが婚宴の席に招かれたなら、自分の席はここだろうと勝手に思いこんだ席に座ってはならない。そうではなく、むしろ最初は末席に座っていなさい。そうすればすぐに係の人がやって来てあなたにこう告げるだろう“こんな末席ではなく、さあどうぞ、あちらの上座にお座りください”と。そうすればあなたは衆人の手前、面目をほどこすことになるであろう」。この例え話はもちろん、これと真逆なことをしたら(されたら)恥ずかしいでしょうという戒めをも含んでいます。

 

 そこで、これは婚宴の席の譬えですが、私たち日本人にもしばしば思い当たる場面(状況)なのではないでしょうか。そのいちばん最たるものの一つが茶道のお茶席かもしれません。茶道をなさる方はおわかりかと思いますが、お茶席に大勢の人が招かれている場合、誰が正客になるかということで延々と駆け引きめいた遣り取りがあったりします。先に正客か決まっている場合でも、形式上、そのような駆け引きが行われるものです。最終的には指名された人が「では粗忽ながら、お正客を務めさせて戴きます」と言ってお正客の席に座り、ようやくお茶会が始まるわけであります。

 

これは私の小さな経験ですが、私は7年ほど前に、京都の大徳寺聚光院のお茶席に参加したことがございます。時あたかも228(利休忌)でありまして、そこには裏千家のお家元が臨席していました。私はもちろん末席に座っていたのですが、係のかたがなぜか私のところに来て「どうぞお家元の隣にお座りください」と言うのです。私はとても驚いて「いえいえ私はこの席で結構です」と申し上げたのですが、なにを勘違いなさったのか、係のかたは私の背中を押すようにして、なかば無理やり私をお家元の隣に座らせました。それから先のことは緊張のあまりよく覚えていません。ただ、淡交会のカメラマンが私とお家元にレンズを向けていることがわかりました。たぶんあとで「こいつはいったい誰だ?」と物議をかもす写真が撮れたに違いありません。

 

 そこで、今朝のルカ伝147節以下に記された御言葉の意味するところもまた、そのようなことなのでしょうか?。特に今朝の11節において主エスは「(11)おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」とお語りになっておられる。これを私たちは「あなたはどんな場所に行っても、なるべく謙虚でありなさい」という処世訓的な教えとして聞くべきなのでしょうか?。もちろん、主イエスはその程度のことを語っておられるのではないと思います。今朝の御言葉は単なる処世訓(人生訓)などではないのです。

 

 いよいよ来週の日曜日(主日)から待降節(アドヴェント)が始まります。そこで、このアドヴェントの期間は教会の長い歴史の中で、なによりも「悔改めの時」として守られてきた伝統があります。私たち改革長老教会の歴史においても、たとえばカルヴァンはアドヴェントを「御降誕の主イエス・キリストをお迎えするために、私たちが深く悔改める期間である」と語っています。そこで、この「悔改め」のことをラテン語で“humilitas”と言います。私はかつてオランダ改革派教会の神学者であり、カルヴァン研究の第一人者であったジョン・ヘッセリンクDr. John Hesselink教授のもとで「カルヴァンの神学における“humilitas”について」という連続講義を受けたことがあります。そのとき明確に示されたことは、カルヴァンは“humilitas”というラテン語を用いて、なによりもまず「キリストの謙遜」を示しているという事実でした。

 

 なぜ私たちはアドヴェントの期間を「深い悔改めの期間」として過ごすのでしょうか。それはなによりも、まずキリスト御自身が、私たちと全世界を救うために、限りなき謙遜のお姿をもってこの世界に来て下さった(御降誕なさった)からにほかなりません。それはなにかと申しますと、永遠なる神の独子が(神と本質を同じくしたもうかたが)滅ぶべき罪人のかしらなる私たちの救いのために、そして全世界とその歴史全体の救いのために、人となられて、あの寒村ベツレヘムの馬小屋の中に、貧しさの極みである飼葉桶の中にお生まれ下さったことです。永遠なる神の御子が、世界で最も低く、貧しく、卑しく、暗いところに、お生まれ下さったのです。私たち全てのものを救うために。それがクリスマスの出来事なのです。

 

 まさにこの幼子主イエスのもとに、馬小屋に、東方からはるばる旅をしてベツレヘムに来た3人の博士たちがいました。彼らは旧約のイザヤの言葉と星の光に導かれて馬小屋を訪れ、そこで御子イエスの御前に跪き、心からなる礼拝を献げました。そして「黄金・乳香・没薬」を幼子イエスにお献げしました。それは当時のイスラエルにおいて、高貴な人の葬式のために用いるものでした。つまり博士たちは幼子主イエスの謙遜が単なる人間としてのへりくだりではなく、なによりも「十字架の主の謙遜」であることを信仰のまなざしで見抜いていたのです。だからこそ彼らは黄金・乳香・没薬という、いわば「葬式三点セット」を幼子主イエスにお献げしたのです。それは心からの悔改めによる真実なる礼拝の姿でした。

 

 それならば、私たちもいま、まさにアドヴェントを目前にして問われているのです。「あなたはこの東方の三博士らと共に、心からの悔改めをもって、幼子主イエスの御前に真の礼拝を献げる者となっているか?」と。なぜなら、この幼子主イエスにこそ、私たちを救い、全世界を救うための「キリストの謙遜」が現わされているからです。4世紀の教父アタナシウスの言葉を借りるなら「神が限りなき謙遜のお姿をもって人としてお生まれになったクリスマスの出来事の中に、すでに私たちと全世界の救いが確定している」のです。

 

 同じ新約聖書のピリピ書26節以下の御言葉をご一緒に心にとめて終わりたいと思います。(6)キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、(7)かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、(8)おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」。ここに「固守すべき事とは思わず」と訳された元々のギリシヤ語は「御自身を無にされて」という意味の言葉です。主イエス・キリストは永遠の神の永遠の御子であられながら、御自身を徹底的に無になされて、つまり、私たちの救いのためにあの十字架の御苦しみと死と葬りとを引き受けられて、私たち全ての者の贖いとなり、救いそのものとなって下さったのです。祈りましょう。