説    教                申命記224節   ルカ福音書1416

                  「安息日のわざ」 ルカ福音書講解〔143

                 2022・11・13(説教22461986)

 

 「(1)ある安息日のこと、(イエスは)食事をするために、あるパリサイ派のかしらの家にはいって行かれたが、人々はイエスの様子をうかがっていた。(2)するとそこに、水腫をわずらっている人が、みまえにいた。(3)イエスは律法学者やパリサイ人たちにむかって言われた、「安息日に人をいやすのは、正しいことかどうか」。(4)彼らは黙っていた。そこでイエスはその人に手を置いていやしてやり、そしてお帰しになった。(5)それから彼らに言われた、「あなたがたのうちで、自分のむすこか牛が井戸に落ち込んだなら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」。(6)彼らはこれに対して返す言葉がなかった」。

 

 主イエスというかたは、本当に屈託のないおかたです。パリサイ人の家に招かれたなら、いつでも喜んでその家の客になられました。今朝の御言葉であるルカ福音書141節以下にも、主イエスが「あるパリサイ派のかしらの家」に食事に招かれた様子が記されています。昔の言葉に「渇しても盗泉の水を飲まず」というものがありますが、主イエスはそのような小さな正義感に拘泥なさるようなかたではなく、全ての人の救いのために十字架への道を歩みたもう救い主なのです。ですから問題はむしろ、主イエスをお招きした私たちの側にあるのでして、私たちがナザレのイエスを「わが主、わが救い主キリスト」として告白するか否かがいつも問われているのです。

 

 はたして「パリサイ人のかしらの家」に入られた主イエスの一挙手一投足を、居合わせたパリサイ人らは虎視眈々と見つめていたわけです。それが1節に「人々はイエスの様子をうかがっていた」とあることです。この「うかがっていた」とは「律法に反する言動を捕らえて失脚させてやろうと企んでいた」という意味でして、いわば人々の悪意によって巧妙に仕掛けられた罠の中に、主イエスは屈託なく入って行かれたわけであります。それはまさに「オオカミの群れの中に入る子羊」のような状況でありました。

 

 どうぞ2節をご覧ください。「(2) するとそこに、水腫をわずらっている人が、みまえにいた」。これこそ、パリサイ人らが主イエスに対してしかけた罠でした。パリサイ人らはあらかじめわざと、一人の「水腫を患っている人」をその場に同席させて、その人に対して主イエスがどのような言動に出るかを虎視眈々と見つめていたわけであります。なによりも、この日はユダヤ教の安息日(土曜日)でした。安息日にはいかなる「わざ」をもしてはならないという律法による厳しい規定がありましたから、いわば主イエスはこの水腫の人に対して何もできない(はずの)状態であったわけです。もし仮に主イエスがこの人の病気を癒したなら、それは律法の掟を破ったことになるわけですから、パリサイ人らは主イエスを逮捕して「七十人議会」(サンヒドリン)という名の律法裁判所に告訴することができたわけです。

 

 では、主イエスはこの巧妙な罠に対して、どのようにふるまわれたのでしょうか?。どうぞ続く3節以下をご覧ください。「(3) イエスは律法学者やパリサイ人たちにむかって言われた、「安息日に人をいやすのは、正しいことかどうか」」。つまり主イエスは居並ぶパリサイ人らに対して、行いの正しさ如何のみをお尋ねになるのです。「安息日に人をいやすのは、正しいことかどうか」この主イエスのお言葉には神から来るところの威厳がありました。つまり主イエスは彼らに「安息日に正しいことを行うことは神の御心に反することなのか?」とお問いになったのです。もっと言うならば、ここで主イエスは安息日の本質についてお問いになったのです。「そもそも安息日とは何のためにあるのか」という問題です。

 

 そこで、これはむしろ当然と申しますべきか、続く4節以下を見ますと、パリサイ人たちの誰一人として、この大切な主イエスのご質問に答えることができなかったということが記されています。4節以下6節までお読みしましょう。「(4)彼らは黙っていた。そこでイエスはその人に手を置いていやしてやり、そしてお帰しになった。(5)それから彼らに言われた、「あなたがたのうちで、自分のむすこか牛が井戸に落ち込んだなら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」。(6)彼らはこれに対して返す言葉がなかった」。

 

 「水腫」という病気は、身体の中に水が溜まって苦しむ症状のことをさしています。原因はいろいろありますが、心臓疾患や腎臓疾患、あるいは癌などによっても水腫が生じることがあるわけで、いわばそれは私たち人間にとって命取りにもなりかねない重大な病気の症状なのです。これを言い換えますなら、@自分では治すことができない。A自然治癒もありえない。B放置していれば死に至る。という性質の病気なのでして、それは私たち人間の「罪」のことをそのまま現わしているのだと言うことができるでしょう。私たち人間の罪もまた、@自分では治すことができない。A自然治癒もありえない。B放置していれば死に至る。という3点においてこの水腫の人と全く同じだからです。この水腫の人はすなわち、私たちの姿なのです。

 

 主イエスはまさにこの人に御手を置いて、その病気を癒して下さいました。主イエスが御手を触れたもうとき、そこに真の癒しの出来事が起こるのです。なぜなら、主イエス・キリストのみが真の神の唯一の御子であられ、私たち全ての者に救いと永遠の生命を与えるために、十字架への道を歩んで下さった救い主だからです。だから主イエスは今朝の御言葉の場面においても、いわばパリサイ人らの罠の道具にされたこの水腫の人に御手を置いて癒され、そして彼を祝福して、家に帰るようにとおっしゃって下さいました。この人はどんなに大きな感謝と喜びをもって家に帰って行ったことでしょうか。神への讃美と喜びに満たされて、一人の「死んでいた者」が生き返り、新しい祝福の人生を歩む僕とされていったのです。

 

 さて、私たちの目を残されたパリサイ人らに転じてみましょう。今朝の5節と6節にはこのように記されています。「(5)それから彼らに言われた、「あなたがたのうちで、自分のむすこか牛が井戸に落ち込んだなら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」。(6)彼らはこれに対して返す言葉がなかった」。ここで主イエスはパリサイ人らに問いたもうのです。あなたがたは、もしも自分の息子や娘が古井戸に落ちてしまったなら、それが安息日だからと言って井戸から助けないことがあるだろうか?。たとえ牛やロバが井戸に落ちてしまったとしても、安息日でも井戸から助けるではないか。それならばなおさら、罪によって滅びに瀕していた一人の人を、安息日に救ったことになんの問題があるというのか?。

 

ここで私たちは同じルカ伝の65節の御言葉を思い起こすことができます。すなわちそれは「人の子は安息日の主である」という御言葉です。これはとても大切な御言葉でして、主イエスは御自身のことを「安息日の主」と語りたもうたことによって、御自分が神と本質を同じくするキリスト(永遠の神の御子)であられることを明確にお示しになったのです。それならば、いまこそパリサイ人らが主イエスに問われているのです。「あなたは私を神の子キリストであると信じるか?」と。同じように主は、いまここに集うている私たち一人びとりにも訊ねておられます。「あなたは私を神の子キリストであると信じるか?」と。その主イエスの大切なご質問に対して、どうか私たちは「はい、信じます。あなたは私の救い主、永遠の神の独子キリストです」とお答えする者たちでありたいと思います。

 

 今朝の御言葉の最後の6節には「(6)彼ら(パリサイ人たち)はこれに対して返す言葉がなかった」と記されています。私たちはそうであってはいけません。むしろ私たちは信仰の言葉を(キリストに対する信仰告白を)聖霊によっていま神の御手から戴いているからです。それゆえ、私たちはいま、世々の聖徒らと共に声を合わせて主にお応えしたいのです。「はい、信じます。あなたこそ生ける神の子キリストです」と。祈りましょう。