説    教              詩篇11826節   ルカ福音書133435

                「御名によりて来たる者」 ルカ福音書講解〔142

                 2022・11・06(説教22451985)

 

(34)ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人々を石で打ち殺す者よ。ちょうどめんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それなのに、おまえたちは応じようとしなかった。(35)見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。わたしは言って置く、『主の名によってきたるものに、祝福あれ』とおまえたちが言う時の来るまでは、再びわたしに会うことはないであろう」。

 

 今朝の御言葉であるルカ福音書1334,35節には、主イエス・キリストがエルサレムとそこに住むおおぜいの人々の救いのために、涙とともに熱き祈りをお献げになった、その祈りの言葉が書き記されているのです。ところで、マタイ福音書の2337節以下を見ますと、主イエスがこの祈りをお献げになったのはエルサレムを一望するオリブ山においてであったと記されています。ルカ伝では主イエスがエルサレムに到着なさった様子は1928節以下まで記されていませんから、マタイ伝との間にははずいぶん時間差があることがわかります。

 

 そこで、私たちが当然抱く疑問は、今朝のル伝とマタイ伝と、どちらが正しい情報を私たちに伝えているのかということです。結論から申しますなら、どちらも正しいのです。つまり、主イエスは今朝のこの熱き祈りをただオリブ山のゲッセマネの園だけで献げたもうたのではなく、それは日々の主イエスの祈りそのものであったのではないでしょうか。今朝の御言葉は主イエスの日常の祈りをルカが書き留めたものとして読むべきなのであります。

 

 そこで、私たちが改めてこの主イエスの祈りを心に留めるとき、その烈しさ、その気迫、その真剣さに改めて驚かされるのであります。「(34)ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人々を石で打ち殺す者よ。ちょうどめんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それなのに、おまえたちは応じようとしなかった。(35)見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。わたしは言って置く、『主の名によってきたるものに、祝福あれ』とおまえたちが言う時の来るまでは、再びわたしに会うことはないであろう」。

 

 ここに告げられていることは、エルサレムは(つまり私たちとこの現実世界は)神に立ち帰るよりも罪の支配の内にあることを好み、喜び、選んだ、そういう現実世界なのだということが明確に告げられているわけであります。それならば、そのような世界は、また私たちは、当然の罪の帰結として滅びざるをえない存在である。例えて申しますなら、沈みそうになっている船の中で、さも楽しげに飲んだり食べたり歌ったり踊ったりしている、それが私たち人間の偽らざる現実なのだということが語られているわけです。

 

 考えてみて下さい、船が沈みつつあるのにもかかわらず、そこで楽しげに飲んだり食べたり歌ったり踊ったりしているとすれば、それ以上の悲劇的状況はないわけであります。言い換えるなら、まさにそのような本末転倒した悲劇的状況の中にいるのが私たち人間の姿なのです。自分の存在そのものが虚無に飲み込まれそうになっているにもかかわらず、それを知ろうともせず、刹那刹那の楽しみだけを追求して生きているのが人間なのです。

 

 だからこそ、今朝の35節において主イエスはこのように祈られました。「(35)見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。わたしは言って置く、『主の名によってきたるものに、祝福あれ』とおまえたちが言う時の来るまでは、再びわたしに会うことはないであろう」。これは実は不思議な御言葉です。「見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう」というのは「この現実世界は滅びる以外にない」という意味で、とても強い審きの言葉です。これは父なる神の御心であるからどうにもならない、という、いわば決定論的なカタストロフィ(終末的破局)の宣告がなされているわけです。ところが、続く御言葉を見ますと「わたしは言って置く、『主の名によってきたるものに、祝福あれ』とおまえたちが言う時の来るまでは、再びわたしに会うことはないであろう」と主は私たちに告げておられます。

 

 なぜ、これが不思議な言葉なのかと申しますと、ここには「あなたは、主の名によって来たる者に必ず会うであろう」という一方的な救いの恵みの宣言が宣べ伝えられているからです。つまり、今朝の35節の御言葉は、罪の結果としての終末的破局がこの現実世界にとって逃れられない事実であるのと同時に、まさにその終末的破局を打ち破ってまでこの現実世界を、つまり私たち全ての者を救い、祝福して下さる「主の御名によって来たる者」の出現が宣べ伝えられているのです。

 

 これを先ほどの「沈みゆく船の譬え」で申しますなら、まさに沈みつつある船から全ての人を救うために、もう一隻の船が救助に駆けつけて来るようなものです。その船の船長である主イエスは、沈みつつある船の乗客たちに呼びかけたもうのです「早く私の船に乗り移りなさい。そうすればあなたたちはみんな救われるのだ」と。ところがどうしたことでしょうか、乗客たちは誰も主イエスの呼びかけに応えようとしなかったというのです。それどころか「この船が沈むなんて、そんなバなことがあるはずはない」と言って、主イエスの呼びかけを無視しようとしたわけです。例えて申しますならまさにそういう状況が、今朝の御言葉に記されているわけです。

 

 では、主イエスという船長は、私たちが愚かにも救助の呼びかけを無視したからと言って「ああそうですか、それなら勝手にしなさい」と言って怒って帰ってしまうようなかたなのでしょうか?。もちろん、そうではありません。この現実世界が罪によって滅びつつあることは事実なのですから、主イエスはそこから私たちを救って下さるために、あえて非常手段をお用いになるのです。それがゴルゴタの十字架による御苦しみと、死と、葬りの出来事であります。

 

 「主の御名によって来たる者」は、私たち人間の(罪人たちの)反応如何で態度を変えられるようなかたではないのです。そうではなくて、主イエスは永遠の昔から十字架への道を歩んで下さった唯一の救い主でありたもうのです。強情で頑なな、悔改めのない私たちの救いのために、いわば黙って勝手に、十字架への道をまっしぐらに歩んで下さったかたなのです。そして十字架において、御自分の全てを献げ抜いて、御自身の生命を献げて、私たちの罪の贖いを成し遂げて下さったのです。永遠なる神の御子が、神と本質を同じくしたもうかたが、言い換えるなら神ご自身が、神の外に出てしまった私たちを救うために、みずから神の外に出て下さったのです。神ではない者になって下さったのです。まことに十字架の主イエス・キリストのみが「滅びの子」でしかありえない私たちを救うために、みずから滅びを担って十字架に死んで下さったのです。

 

 それならば、まさにこの、主イエスの十字架による御苦しみと、死と、葬りという非常手段によって、私たちは救われた者たちなのです。その救いの証拠として、私たちは今この礼拝において「主の御名によって来たる者」すわち十字架の主イエス・キリストを、唯一の永遠の救い主として信じ告白し、主に贖われ、救われ、祝福された全ての主の聖徒たちと共に、主の御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会に連なる僕とされて、主が賜る永遠の生命の喜びと幸いの内に、心を高く上げて御国への道を歩む者たちとならせて頂いているのです。祈りましょう。