説    教             ホセア書623節  ルカ福音書133133

                「主イエスの歩み」 ルカ福音書講解〔141

                2022・10・30(説教22441984)

 

 「(31)ちょうどその時、あるパリサイ人たちが、イエスに近寄ってきて言った、「ここから出て行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうとしています」。(32)そこで彼らに言われた、「あのきつねのところへ行ってこう言え、『見よ、わたしはきょうもあすも悪霊を追い出し、また、病気をいやし、そして三日目にわざを終えるであろう。(33)しかし、きょうもあすも、またその次の日も、わたしは進んで行かねばならない。預言者がエルサレム以外の地で死ぬことは、あり得ないからである』」。

 

 私たちはパリサイ人と申しますと、悪しき形式主義の律法学者であり、主イエスの敵対者であり悪人のように思っています。しかし主イエスがお語りになる神の国の説教を聴いて心動かされ、主イエスをキリストとは信じなかったものの、理解者になったパリサイ人たちも少数ですがいたことが、新約聖書を丁寧に読んで参りますとわかるのです。今朝のルカ伝1331節以下などはまさにそのような場面でありまして、当時のユダヤの王であったヘロデが主イエスを殺そうと企んでいることを察知した数名のパリサイ人たちが主イエスのところに参りまして申しますには「ここから出て行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうとしています」と告げたわけであります。これは要するに、主イエスにヘロデ王による危害がおよぶ前に、主イエスを安全な場所に逃れさせようとしたわけです。

 

 ところが主イエスは落着いておられました。逃げようとなさらなかったのです。むしろ主イエスはパリサイ人らにこう言われました。今朝の32節と33節です。「(32)そこで彼らに言われた、「あのきつねのところへ行ってこう言え、『見よ、わたしはきょうもあすも悪霊を追い出し、また、病気をいやし、そして三日目にわざを終えるであろう。(33)しかし、きょうもあすも、またその次の日も、わたしは進んで行かねばならない。預言者がエルサレム以外の地で死ぬことは、あり得ないからである』」。

 

 カール・バルトの弟子であり、チェコの優れた神学者であったヨゼフ・フロマートカは、第二次世界大戦後にチェコが当時のソビエトの国家社会主義体制に取りこまれて共産主義化してしまったとき、チェコの多くの学者や知識人や文化人たちが西側諸国に亡命したのに対して、逃げようとはしませんでした。フロマートカはチェコに残ったのです。その理由はとても単純なものでした。チェコには15世紀のヤン・フスによる宗教改革以来の改革派教会が数多くあって、そこには真の礼拝と神の言葉を必要とする多くの信徒たちがいたからです。神学者である牧師は御言葉を必要としている人々を置き去りにして逃げることはありえない、というのがフロマートカの堅い信念でした。フロマートカは1969年に亡くなるのですが、教え子であったプラハ大学神学部(プラハ大学コメニウス神学部)の神学生たちにも「牧師たるものはどんなことがあっても信徒を見捨てて国外に逃げてはならない」と遺言を残しています。

 

 実はそのことは、根源をたどるなら、主イエス・キリストが歩まれた道を現代の牧師たちが歩むことに繋がるのではないでしょうか。主イエス・キリストは逃げなかったのです。ヘロデが御自分を殺そうとしていることを知っても、主イエスはそこから逃げようとなさらなかった。理由は単純でした。神の御言葉を、福音を必要としている人々がそこに大勢いたからです。むしろ主イエスは、逃げることを勧めてくれたパリサイ人らにこうお答えになったのです。「あのきつねのところへ行ってこう言え、『見よ、わたしはきょうもあすも悪霊を追い出し、また、病気をいやし、そして三日目にわざを終えるであろう。(33)しかし、きょうもあすも、またその次の日も、わたしは進んで行かねばならない。預言者がエルサレム以外の地で死ぬことは、あり得ないからである』」。この「あのキツネ」という言葉を「あのスターリン」に置き換えるなら、それはフロマートカ自身の言葉と重なるに違いありません。

 

 ここで私たちが心を注がざるをえませんのは、この32節以下の御言葉において主イエス・キリストは、エルサレムにおける御自身の死について触れておられることです。それは32節に「(私は)三日目にわざを終えるであろう」とあり、また33節に「預言者がエルサレム以外の地で死ぬことは、あり得ないからである」と語っておられることです。そこで、この文章の形における十字架の予告はルカ伝だけが書き記しているものなのですが、ここにこそ主イエスの歩みの全てが凝縮し現わされていると申してよい御言葉なのです。それこそ主イエスの十字架による御苦しみと死と葬りの出来事であり、私たち全ての者の救いと真の自由のために主イエスが最後まで担い切って下さった救いの御業そのものなのです。

 

 何びとと言えども主イエスの歩みを止めることはできません。また、何びとと言えども主イエスを十字架への道から逃れさせることはできません。主イエスはいつでもどこでも、ただ父なる神に忠実にお従いになる道を歩みたまいます。そしてヨハネ伝131節が明確に告げておりますように、全ての者を極みまでも愛したもうて、最も小さき者の救いのために、御自身の全てを献げ尽くして下さったのです。「過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された」。また、パスカルは「パンセ」においてこのように語っています。「主イエスは世の終わりに至るまで、われら全ての者たちのために十字架の御苦しみを担いたもう。その間、我々は眠ってはならない」。この「眠ってはならない」とは「十字架の主イエスをわが主・救い主と信じ告白する信仰において常に目覚めた僕であり続けなさい」という意味です。

 

 今朝あわせてお読みした旧約聖書・ホセア書62節以下を改めて読みましょう。「(2)主は、ふつかの後、わたしたちを生かし、三日目にわたしたちを立たせられる。わたしたちはみ前で生きる。(3)わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。主はあしたの光のように必ず現れいで、冬の雨のように、わたしたちに臨み、春の雨のように地を潤される」。これは預言者ホセア自身が認めているように、罪の内にある私たち人間がその罪の支配の中からひたすらに主による救いを求める祈りの言葉です。ここに「主は、ふつかの後、わたしたちを生かし、三日目にわたしたちを立たせられる」とあることこそ、主イエス・キリストの十字架と復活の恵みを指し示しています。罪の内にあって神の外に出てしまった私たちを救うために、神と本質を同じくしたもう主イエスが、神ご自身が、十字架の御苦しみと死と葬りという非常手段をもって神の外に出て下さり、そこで100%救われえなかった私たちを100%救いを与えて下さったのです。

 

 それならば、主イエスの歩みはゴルゴタの十字架を目指しての歩みです。私たちに真の救いと自由を与えるために、主イエスみずからご自身の全てを献げ尽くして下さって、私たちの唯一永遠の贖いを成し遂げて下さいました。主イエスの歩みは微塵も自分自身を目的としたものではありませんでした。主イエスはご自分の営利栄達のために歩まれたことは一度もありません。そうではなく、主イエスは徹頭徹尾、私たちの救いと自由のために、ゴルゴタの十字架への道を歩んで下さったのです。私たちの救いのためにご自分の全てを献げ抜いて下さったのです。まさに私たちは、この主イエスの歩みによって救われ、主の御身体なる、聖なる公同の使徒的なる教会に連なる者とならせて戴き、この歴史、この地上の人生の歩みにおいて、御国への道を共に歩んでゆく僕とされていることを感謝し喜び、主に贖われたキリスト者として生きて参りたいと思います。祈りましょう。