説    教        エレミヤ書235−6節  ルカ福音書132430

                「恩寵による選び」 ルカ福音書講解〔140

                2022・10・23(説教22431983)

 

 「(25)家の主人が立って戸を閉じてしまってから、あなたがたが外に立ち戸をたたき始めて、『ご主人様、どうぞあけてください』と言っても、主人はそれに答えて、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない』と言うであろう。(26)そのとき、『わたしたちはあなたとご一緒に飲み食いしました。また、あなたはわたしたちの大通りで教えてくださいました』と言い出しても、(27)彼は、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない。悪事を働く者どもよ、みんな行ってしまえ』と言うであろう。(28)あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが、神の国にはいっているのに、自分たちは外に投げ出されることになれば、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。(29)それから人々が、東から西から、また南から北からきて、神の国で宴会の席につくであろう。(30)こうしてあとのもので先になるものがあり、また、先のものであとになるものもある」。

 

 私たちの葉山教会は改革長老教会(Reformed Presbyterian Church)の伝統に立つ群れです。そこで、改革長老教会と聞けば、まず私たちが思い起こす代表的な人物はジャン・カルヴァンでありましょう。いわゆる「三大宗教改革者」ルター、カルヴァン、ツヴィングリ、の一人として有名です。中学校や高校の社会科や世界史の教科書にも名前が出てきます。ところが、このカルヴァンという人はどうも日本においてはあまり評判が宜しくない、と申しますより、はっきり申してネガティヴな印象で語られているのはなぜなのでしょうか?。その一つの理由として、私はカルヴァンがいわゆる「二重予定論」を提唱した人物として中学や高校などで教えられているからではないかと思います。

 

 「二重予定論」とは、端的に申しますなら「神は永遠の昔から、救われる者と滅びる者とを予定された」と主張する教説です。これは極論しますなら「救いに予定された者はどんなに自堕落な生活をしていても最終的に救われるのだし、滅びに予定された者はどんなに努力して清い生活をしても最終的に滅びるのだ」ということになります。ここまで聞いて、どうですか?ここにいる皆さんは、もしカルヴァンが本当にそういう「二重予定論」を唱えたのだとしたら、尊敬できますか?。私はできません。それは一種の運命的予定論になるのであって、カルヴァンはすなわち運命論者であるという結論になるからです。そういう人物を、少なくとも私は(私も改革長老教会の牧師ですが)尊敬できませんし、神学者としても認めることはできまん。

 

 結論から申しますなら、カルヴァンは「二重予定論」などを唱えてはいません。キリスト教の最も大きな特質は運命論的な世界観(人生観)を否定することにあります。彼が「キリスト教綱要」などで語っていることは「救いに定められた者たちの、恩寵による選びの確かさ」ということだけです。もう一度申します「救いに定められた者たちの、恩寵による選びの確かさ」だけをカルヴァンは語っているのです。そのたしかな根拠として取り上げられる聖書の御言葉が、今朝ご一緒にお読みしたルカ伝1325節以下です。

 

気を付けて戴きたいのは、今朝のこの御言葉は一見すると「二重予定論」を語っているように見えることです。「(25)家の主人が立って戸を閉じてしまってから、あなたがたが外に立ち戸をたたき始めて、『ご主人様、どうぞあけてください』と言っても、主人はそれに答えて、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない』と言うであろう。(26)そのとき、『わたしたちはあなたとご一緒に飲み食いしました。また、あなたはわたしたちの大通りで教えてくださいました』と言い出しても、(27)彼は、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない。悪事を働く者どもよ、みんな行ってしまえ』と言うであろう」。

 

 ここでは主イエスが、必死になって救いを求める人々を(私たちを)にべもなく拒絶して、それどころか「知らない。悪事を働く者どもよ、みんな行ってしまえ」と放言しておられる、そのように受け取られる御言葉です。しかし、だからこそ、どうぞ注意して次の29節と30節を見て戴きたいのです。「それから人々が、東から西から、また南から北からきて、神の国で宴会の席につくであろう。(30)こうしてあとのもので先になるものがあり、また、先のものであとになるものもある」。これこそ、今朝の御言葉の中心部分です。東西南北というのは「全世界から」という意味です。では、その世界とはどのような世界なのでしょうか?。それは同じ新約聖書のエペソ書212節が語っているように「希望もなく神もない世界」です。「神なき世界」という徹底的にラディカルな無神論的思想は、マルクスやエンゲルスの専売特許ではないのであって、なによりも聖書が既に「この現実世界は(その自然性においては)希望もなく神も無い世界なのだ」とはっきりと語っているわけであります。

 

 そこで、これを私たち個々の人間に当てはめて申しますなら、私たちは「救いへと選ばれるはずのない者たちである」という結論になるのではないでしょうか。これはもう二重予定論どころの話ではないのであって「この現実世界と私たちは絶対に救われない存在である」という結論にしかならないのです。それこそ、主イエスと一緒に飲み食いをしたことがあっても、あるいは主イエスの御言葉を大通りで聴いたことがあっても、私たちは絶対に救われない「希望もなく神も無い存在である」という結論にしかならないのです。まさに今朝の27節の『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない。悪事を働く者どもよ、みんな行ってしまえ』という主イエスによる徹底的な拒絶こそ、私たち全ての者が受けなくてはならない定めなのではないでしょうか?。

 

 それならば、まさにそのような「希望もなく神も無い」この現実世界と私たちを救って下さるために、主イエス・キリストはあのクリスマスの晩に人としてお生まれになり、十字架への道を歩まれ、御自身の全てを献げ尽くして、私たちの罪の贖いとなって下さったのです。聖書が語っているキリスト教の福音の本質は「神は救われえない私たちを救うために御自身を献げ尽くして下さった」という音信にあります。それこそ今朝あわせてお読みした旧約聖書のエレミヤ書235節以下にこう記されているとおりです。「(5)主は仰せられる、見よ、わたしがダビデのために一つの正しい枝を起す日がくる。彼は王となって世を治め、栄えて、公平と正義を世に行う。(6)その日ユダは救を得、イスラエルは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる」。ここに「その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる」とございますが、それこそ十字架の主イエス・キリストによる全世界に対する救いの御業を現わしているのです。

 

 私たちには神に喜ばれる「正義」など微塵もありません。私たちにあるものは罪の塊のような自己であり、滅びの子としての現実であり、まさに「希望もなく神も無い」姿でしかないのです。しかし、まさにそのような100パーセント救われざる私たちを100パーセント救うために、神の独子みずから、あの呪いの十字架を一身に背負って、ゴルゴタへの道を歩んで下さいました。つまり、これはどういうことかと申しますと、私たちが救われるのは、私たち自身の中に僅かでも救いの可能性があるからではないのです。そんなものは皆無なのです。その、救いの可能性の全く無い私たちを、そしてこの現実世界と歴史全体を救うために、神の御子イエス・キリストが、神と本質を同じくしたもうおかたが、私たちの身代わりとなって、あの呪いの十字架に御自身の生命を献げ尽くして下さったのです。それが聖書が語っている福音の本質です。「神は神無き者たちのための神である」。「神は100%救われえない私たちを100%救って下さるかたである」。「神は救い無き私たちを十字架の主イエス・キリストによって救いに選んで下さったかたである」。これが聖書が告げている福音の本質なのです。

 

 そのようにして救いの恵みの喜びへと選ばれ、招かれ、神の民とされた者たちが、東西南北から、全世界から集まってきて、神の国で喜びの宴会を開くであろうと、主みずからはっきりと語っておられます。これは主の聖餐において先取りされている、御国における永遠の喜びに連なる幸いです。そして「(30)こうしてあとのもので先になるものがあり、また、先のものであとになるものもある」であろうと主は言われるのです。歴史においては、私たちの個々の人生においては、ある人は若い時に救われるだろうし、また他の人たちは壮年期に、また他の人たちは老年になってから、救いに入れられるであろう。後の者が先になったり、先の者が後になったりするであろう。しかし、いずれにしても、神は御子イエス・キリストにおいて全ての者を救いに選んでいて下さる。全ての人が御国の民となるために、主は十字架を担って下さった。この恵みの確かさは永遠に変わることはないと、はっきりと宣べ伝えられているわけであります。祈りましょう。