説    教           ヨブ記1925節  ルカ福音書132224

                「救われる人とは」 ルカ福音書講解〔139

                2022・10・16(説教22421982)

 

 「(22)さてイエスは教えながら町々村々を通り過ぎ、エルサレムへと旅を続けられた。(23)すると、ある人がイエスに、「主よ、救われる人は少ないのですか」と尋ねた。(24)そこでイエスは人々にむかって言われた、「狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから」。

 

 今朝の御言葉は最初から、私たちに強い印象を与えるものです。それは22節に「さてイエスは教えながら町々村々を通り過ぎ、エルサレムへと旅を続けられた」と記されていることです。主イエスはガリラヤのカペナウムを後にして、ユダヤの都エルサレムに行こうとなさっておられるのです。主は何のためにエルサレムに行こうとされているのでしょうか?。ひとつには、エルサレムにおいて年に一度行われる「過越しの祭り」が近づいていたからです。

 

 過越しの祭りと申しますのは、太陽暦で申しますとだいたい3月中旬ごろ、大贖罪日という日を中心にしてエルサレム神殿において行われる最も大切なイスラエルの宗教行事であり、その中心は神への感謝と献げものを献げる御言葉による礼拝でありました。大贖罪日におきしては、大祭司が一人で神殿の至聖所に入り、そこで自らと全ての人々の罪の贖いのための犠牲を献げることになっていました。その日にはイスラエルはもちろん、全世界から集まってきたおびただしいユダヤ人が、神殿の中庭に集まって敬虔な悔改めと感謝の祈りを献げることになっていました。

 

 ですから、主イエスはこの「過越しの祭り」に出席なさるためにエルサレムに行こうとなさったのです。それは確かなことです。しかし同時に、主イエスには他の人々には無かった、もうひとつの大きな目的がありました。それは、主イエス御自身が全世界の全ての人々の罪の贖いのために、御自身の身体と生命とを「永遠の傷なき神の子羊」として献げたもうことでした。大祭司といえども人間ですから、彼は至聖所において自分自身の罪のためにも毎年「大贖罪日」に贖いの犠牲を献げ続ける必要があったのです。それに対して、永遠の神の独子であられる主イエス・キリストは、罪なき唯一のおかた、ニカイア信条にあるように「まことの神にしてまことの人」なるかたとして、全人類の罪のために、ただ一度かぎりにしてしかも永遠なる、全ての人々のための罪の贖いの犠牲をお献げになることができる唯一のおかたなのです。

 

 それは、同じ新約聖書のへブル書911節と12節に、このように記されているとおりです。「(11)しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、(12)かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠の贖いを全うされたのである」。

 

 ここに「永遠の贖いを全うされた」とございます。それは何を意味しているかと申しますと、あのゴルゴタにおいて主イエスが担いたもうた十字架による死と葬りを意味しているのです。私たち全ての者の罪の贖いのために、赦しと救いのために、神の永遠の御子みずからが、呪いの十字架を背負って、呪いの十字架におかかりになって、死んで下さり、墓に葬られて下さったのです。それは、罪の結果としての死と葬りを人生の終着点として持たざるをえない私たち全ての者に、永遠の生命と救いと喜びと幸いを与えて下さるためです。まさにキェルケゴールが語っているように「このおかた(主イエス・キリスト)のみが、御自身の苦難によって私たちに平安と自由を与え、御自身の死によって私たちに生命と救いを与え、御自身の葬りによって私たちに永遠の希望と感謝を与えて下さった」のです。

 

 主イエスはエルサレムに向かわれる道すがら、立ち寄った村や町において、人々に神の国の福音をお語りになりました。しかし、それを聞いて信じる人はとても少なかったとマタイ伝は記しています。ある村などでは主イエスや弟子たちは石を投げられて迫害を受けました。そういうことが続いたある日のこと、弟子たちが主イエスにお訊ねしたのです。今朝の御言葉の23節です。「主よ、救われる人は少ないのですか」と。もっとも、彼らは主イエスがエルサレムでなさろうとしていることは王様になることだと思いこんでいましたから、この「救い」の意味は主イエスの御心とは違っていました。しかし、この質問に対して主イエスはこうお答えになったのです。今朝の24節です。「そこでイエスは人々にむかって言われた、「狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから」。

 

 ここで主がおっしゃった「狭い戸口」とは何のことでしょうか?。それは主イエス・キリストを信じて、十字架と復活の主の御身体である主の教会に連なることを意味します。今日は一人の姉妹が洗礼を受けて私たち葉山教会の一員に加えられました。それは葉山教会の教会員になることであるのと同時に、天における永遠の教会の一員になることであり、天国に国籍を持つ者として生きることであります。そして、神が御子イエス・キリストと聖霊を通して与えて下さる永遠の生命に生きる者とされることです。こんなに大きな恵みを受けることであるにもかかわらず、それを見出して洗礼を受けることがなんと少ないことでしょうか。まさに主イエスが言われるように、それは「狭い戸口」のように見えるのです。

 

 しかし、だからこそ、私たちは次のことを忘れてはなりません。同じ新約聖書のマルコ伝1025節には、主イエスが「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」と語りたもうたことが記されています。この場合の「富んでいる者」とは「様々な世間のしがらみのある人」という意味です。と申しますと、私たちは全て「様々な世間のしがらみ」の中で生きているのですから、それは実は全ての人のことをさしているわけです。ラクダが針の穴を通れるはずはありません。実際に弟子たちは「では、誰が救われるのでしょうか?」と主イエスに疑問を投げかけるのです。これに対して主イエスはこうお答えになりました。「(27)イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。

 

 私たち自身の中には救いの根拠は全くありません。それは、大祭司でさえ自分の罪の贖いのために犠牲を献げなければならなかったのと同じことです。しかし、その、悔いの可能性の全くなかった私たちのためにこそ、神の永遠の御子イエス・キリストは、御自身の全てを献げ尽くして、私たちの贖いとなって下さったのです。100%救いの余地のなかった私たちが、100%主イエスの十字架による贖いによって救われる者とならせて戴けるのです。この救いには全ての人が招かれています。だからこそ、私たちは「狭い戸口からはいるように努め」ようではありませんか。主イエス・キリストを「わが主、わが神、わが救い主」と信じ、告白して、十字架と復活の主の御身体なる、聖なる公同の使徒的なる教会に連なり、礼拝者として生き続けて参ろうではありませんか。主の愛と祝福の内を、主と共に、主に支えられ守られつつ、主の平和の内に、歩み続けてゆく私たちでありたいと思います。祈りましょう。