説    教           詩篇1425節  ルカ福音書131821

                「神の国の譬え」 ルカ福音書講解〔138

                2022・10・09(説教22411981)

 

 「(18)そこで言われた、「神の国は何に似ているか。またそれを何にたとえようか。(19)一粒のからし種のようなものである。ある人がそれを取って庭にまくと、育って木となり、空の鳥もその枝に宿るようになる」。(20)また言われた、「神の国を何にたとえようか。(21)パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる」。

 

 主イエスの譬話はいつでも、とてもわかりやすいものでした。それはいつも人々にとって身近な比喩をお用いになるので、大人にも子供にも親しみやすく、よく理解できるものでした。今日の御言葉であるルカ伝1318節以下においても、主イエスは「からし種」と「パン種」という2つの身近な比喩をお用いになって、ユダヤの人々にわかりやすく神の国の福音を宣べ伝えたもうたのです。

 

 まず「からし種」ですが、これはスーパーなどで瓶入りで売られているマスタードの種子のことだ言えば、私たちにもよく理解できるのではないでしょうか。もっとも、私たちが知っているいわゆる「粒入りマスタード」の粒(種子)はけっこう大きなものですが、それは水分でふやけているからで、元々のからし種は直径0.5ミリほどのごく小さなものです。これはアブラナ科の植物であるカラシナ(学名はBrassica juncea)で、ガリラヤ湖畔などに参りますと、見事なカラシナの菜の花畑を見ることができます。青いガリラヤ湖を背景にして、丘全体が真っ黄色になるほどたくさんのカラシナが咲いている風景は、ガリラヤ地方の典型的な風景であり、とても美しいものです。

 

(なぜアブラナ科の植物が辛子の原料なのかという疑問には、辛味大根やワサビもアブラナ科の植物だと申せばおわかり頂けるのではないでしょうか)

 

 ともあれ、このカラシナの種子はとても小さなものですが、それを畑に蒔くと驚くほど大きく成長して、ときには草丈が2メートル以上にもなり、小鳥がそこに止まって羽を休めるほどになるのです。「(19)それは一粒のからし種のようなものである。ある人がそれを取って庭にまくと、育って木となり、空の鳥もその枝に宿るようになる」。

 

 次に主イエスは21節において、神の国を「パン種」に譬えておられます。パン種と申しますのはイースト菌のことです。これは辛子種よりももっと遥かに小さなものですが「女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる」と主イエスはお語りになるのです。主イエスというかたはとてもよく自然を観察なさっているかたですが、パン作りの工程においても、イースト菌を粉に混ぜることがどれほど大切かをよくご存じでいらしたのではないでしょうか。イースト(Yeast=酵母)の作用によって小麦粉が発酵して膨張し、それを焼くことによってパンができるわけであります。そういうことを主イエスはとてもよく観察しておられたと思います。

 

 さて、この2つの譬え(辛子種とイースト菌)に共通していることは何でしょうか?。それは2つとも、最初はとても小さいにもかかわらず、大きく成長することであります。すなわち、小さな辛子種は大きく成長して、小鳥たちが翼を休ませるほどの大きさになり、小さなパン種まもまた大きく成長して、たくさんの大きなパンになるわけです。それと同じように、神の国も最初はとても小さなものにしか見えません。それは小さな教会であり、そこに集まっている人々も、社会全体から見るなら取るに足らないと感じられるほどの小さな群れであるに過ぎないのです。それこそ私たちは辛子種やイースト菌のような小さな目立たない群れに過ぎないのです。

 

 しかし、と主イエスは言われます。しかし、カラシナは大きく成長して、小鳥たちが集まって翼を休ませるほどの大きさに成長するではないか。パン種も目に見えないほど小さなものにすぎないが、たくさんの大きなパンへと成長するではないか。それと同じように、あなたたちはいまは小さな教会、小さな群れに過ぎないかもしないけれど、やがて大きな群れ、そこに全ての人々が魂の休みを得、全ての人々が魂の唯一の糧を得るところの、大きな主の家へと成長するものなのだ。そのように主イエスははっきりと約束して下さっているのです。「あなたたちは今は小さな群れだけれども、やがては全世界を覆い尽くすほどの大きな群れ、神の家へと成長するであろう」と。

 

 しかしそれは、自然に、勝手に、無条件でそうなるということではないのです。「果報は寝て待て」ではいけないのです。主は私たちにいま、なにを求めておられるのでしょうか?。まず「辛子種」について申しますなら、私は農学校で学んだ経験があるのですが、どのような作物であれ、その種子を採取して管理するということはとても大事なこと、また、難しいことなのです。たとえば、種子はそれ自体が生物なのですから、その生命を維持するように管理しなければなりません。それから、いろいろな他の種類の種子が混ざってはいけないのです。辛子種は辛子種として純粋な、混ざりもののない状態で管理され、畑に蒔かれなくてはなりません。それはパン種(イースト菌)にも全く同じことが言えるのです。

 

事実、主イエスは弟子たちに「パリサイ人のパン種に気をつけなさい」と言われました。ひと口に「パン種」と言っても同じではないと言われたのです。ひと口に「教会」と言っても、キリストの主権を現わしていない、生命の無い教会であっては何の意味もないのです。混ざりものがあってもいけません。神の御言葉(全ての人を救いに導く福音)以外のものを宣べ伝える教会は、もはや主の教会と呼ぶことはできません。そもそも教会を意味する英語の“Church”またはドイツ語の“Kirche”という言葉は「主の家」を意味するギリシヤ語の“Kuriakon”が語源になっています。私たちの中心におられるのは十字架と復活の主イエス・キリストご自身であり、私たちはその主に仕える群れ(主の家の家族)なのです。

 

 さらに申しますなら「神の国」とは「神の恵みによる永遠の御支配」のことなのです。それは「国」と訳されたギリシヤ語の“Basileia”が支配を意味するからです。それなら、私たちはいまこの21世紀の社会において、神の御支配を実感できることが多くはない、いや、むしろ少ないかもしれません。たとえば世界情勢を見ても、ロシアによるウクライナへの侵略戦争のようなことが現実に起こる世界に私たちは生きているわけです。自分の身の回りを見ても、どこに神の御支配があるのかと疑問に思うようなことが多々あるかもしれません。なによりも、私たち自身を顧みるとき、自分がそのままで神の国に相応しい人間だとはとても思えない、そういう実感がするのが偽らざる私たちの姿かもしれません。

 

 しかしそれだからこそ、主イエスは今朝、私たち一人びとりに「神の国は何に似ているか。またそれを何にたとえようか」と繰り返し語り告げていて下さるのです。神の国は神の御支配を意味するのですから、その主体は(主語は)神御自身です。つまり、私たちの罪という名の不可抗力の障壁をもものともせず、神御自身が私たちの救いのため、全世界の救いと平和と祝福のために、御子イエス・キリストを通して、そして聖霊を通して、歴史の中に御業を行っていて下さるのです。私たちのただなかに、神による救いの御業がたしかに現わされているのです。

 

それはまだ、辛子種やパン種のようにごく小さなものに見えるかもしれない。しかし、