説    教       出エジプト記2023節  ルカ福音書131417

               「神を神とすること」 ルカ福音書講解〔137

                2022・10・02(説教22401980)

 

(14)ところが会堂司は、イエスが安息日に病気をいやされたことを憤り、群衆にむかって言った、「働くべき日は六日ある。その間に、なおしてもらいにきなさい。安息日にはいけない」。(15)主はこれに答えて言われた、「偽善者たちよ、あなたがたはだれでも、安息日であっても、自分の牛やろばを家畜小屋から解いて、水を飲ませに引き出してやるではないか。(16)それなら、十八年間もサタンに縛られていた、アブラハムの娘であるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」。(17)こう言われたので、イエスに反対していた人たちはみな恥じ入った。そして群衆はこぞって、イエスがなされたすべてのすばらしいみわざを見て喜んだ」。

 

 主イエス・キリストがユダヤ教の安息日(土曜日)18年間も病気で苦しんでいた女性を癒されたことで、たちまち律法学者やパリサイ人らの中から激しい非難の声があがりました。今朝の御言葉の最初の14節に「会堂司」とありますのはユダヤ教会堂(シナゴーグ)の主任司祭のことをさしていますが、そのほとんどはパリサイ派の律法学者でした。そこで、この会堂司はまず、主イエスに対してではなく、会堂に集まっていた会衆に対してこう申しました。「働くべき日は六日ある。その間に、なおしてもらいにきなさい。安息日にはいけない」。これはどういうことかと申しますと、彼らはまず、会衆を味方につけようとしたのです。つまり彼らは一般民衆の心を自分たちに向けさせ、自分の味方につけて、主イエスを非難し、排除し、民衆の支持を失わせ、失脚させようとしたわけです。

 

 私が約30年前にイスラエルのエルサレムに参りましたとき、ある古いホテルに泊まりました。ちょうど金曜日の夕方にそのホテルに着いたのですが、エレベーターが各階止まりの自動運転になっていて、8階の部屋に行くまで10分ぐらいかかったのを覚えています。そして、部屋に入るとヘブライ語で「シャバット」と書かれた赤いスイッチがありました。それは、安息日が始まる前にそのスイッチをONにしておけば、暗くなったら自動的に灯りがつき、11時になったら消えるというものでした。電気のスイッチを押すことまで「安息日にしてはならない労働」に含めているわけで、私は保守的なユダヤ教徒がそこまで厳しく律法を守っていることに改めて感心した次第です。

 

 ようするにカペナウムのシナゴーグの会堂司は、律法を根拠にして民衆の支持を獲得し、主イエスを宗教的・社会的に失脚させようと企んだわけです。これに対して主イエスは15節以下にこのようにお答えになりました。「(15) 主はこれに答えて言われた、「偽善者たちよ、あなたがたはだれでも、安息日であっても、自分の牛やろばを家畜小屋から解いて、水を飲ませに引き出してやるではないか。(16)それなら、十八年間もサタンに縛られていた、アブラハムの娘であるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」。私も農学校時代に経験がありますが、家畜を飼育していると律法を守れないことがたくさんあります。今日は安息日だから、牛や馬や羊や豚や鶏にも断食をさせよう、ということはできないわけです。水も飲ませてやらなくてはなりません。それと同じようにと主イエスは言われます。「(16)それなら、十八年間もサタンに縛られていた、アブラハムの娘であるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」。家畜たちでさえ、安息日の律法以上に大事にされているのなら、ましてやアブラハムの娘であるこの女性の病気を安息日に私が癒したのは当然ではないかと、主イエスはおっしゃったわけです。

 

 私はあるとき「神を信じる」ということについて、ひとつの大切な事実に気が付いたことがありました。それは何かと申しますと、私たち日本人のほとんどが「神を信じる」ことは「神の存在を信じる」ことと同じだと考えているのですが、それは間違いだということです。「私は神の存在を認めるけれど、神を信じない」ということができるからです。つまり、神の存在を認めることと、神を信じることは別の事柄なのです。それは、私たちキリスト者の信仰の内実にも関わってくる問いではないでしょうか。どういうことかと申しますと、ただ頭の中だけで、ただ口先だけで、「私は神を信じている」ということが私たちにはえてしてあるのではないか。神への信仰が行いになっていない、生活になっていない、内実化していない、そういう危険が、特に私たち日本のキリスト者にはあるのではないでしょうか。

 

今朝の説教題を「神を神とすること」といたしました。私たちの信仰は、ただ神の存在を認める、神の存在を信じる、という頭の次元に留まってはいけないのです。そうではなくて、いつも「神を神とすること」でなければならないのではないでしょうか。そのとき、大切なのが今朝あわせてお読みした出エジプト記202節と3節が(つまりモーセの十戒の第1戒が)とても大切なのです。(2)わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。(3)あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」。ここには「あなたは私の存在を否定してはならない」とは書いてないのです。そうではなくて「(3)あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」と書いてあるのです。

 

 また私事になりますが、私はかつて、一人の大学生とキリスト教について対話をしたことがあります。この大学生の青年はキリスト教について基本的な知識を持っていた人ですが、私にいきなりこう言ったのです。「私は神なんか信じません」。そこで私は彼に言いました「うん、わかった、それなら、君が信じないという、その神とはいかなる神なのか、私に教えてくれませんか」。この私の反応に彼は少し驚いたようでしたが、こういう答えをしてくれました。すなわち「神は暴君のように人間の運命を支配している存在であり、世界の現状に対して不公平な審きを行っており、自分を信じる者だけを大事にして、信じない者たちは冷酷に排除する、そのような存在である。そのような神を私は絶対に信じません」。そこで私は彼にこう答えました。「はい、よくわかりました。そういう神なら私も信じない。では、私が信じる神の話を聞いてくれませんか?」。そこからはじめて伝道が始まるのです。日本で伝道をするということは、そういうことを丁寧にすることが必要なのだと私は思っています。「あなたは神を信じますか?」では伝道にならないのです。

 

 「(2)わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。(3)あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」。ここにはまず最初に、真の神が私たち全ての者に行って下さった救いの御業が宣べ伝えられています。それは「あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した」ことです。これは私たちを罪と死の桎梏から解放し、真の自由と平安と生命を与えて下さった、主イエス・キリストの十字架の出来事を示しています。つまり、主イエス・キリストの十字架の御苦しみと死による、私たち全ての者の唯一永遠の救いこそ、私たちが「神を神とすること」のただひとつの根拠なのです。主イエス・キリストが、永遠の神の独子が、あなたの救いのために十字架を担われ、ゴルゴタで死んで下さったことです。

 

 言い換えますなら、私たちはたとえどんなに正しく見える人間て会っても、神の前には滅びべき憐れな罪人にすぎないのです。私たち自身の中には救いの根拠や可能性は皆無であり、私たちはいわば100%救いの可能性のない存在なのですが、そのような私たちを100%救って下さるために、神の御子イエス・キリストはあの十字架の痛ましい御苦しみと死をご自身のものとなして下さり、私たちの身代わりとなって、贖いの死を遂げて下さったのです。まさにこの、十字架の主イエス・キリストを知ることこそ、真の神を知ることであり、この十字架の主イエス・キリストを「わが主、わが神」として告白することこそ「神を神とすること」なのです。祈りましょう。