説    教            民数記62426節  ルカ福音書131013

               「立ち上がらせたもう主」 ルカ福音書講解〔136

                2022・09・25(説教22391979)

 

(10)安息日に、ある会堂で教えておられると、(11)そこに十八年間も病気の霊につかれ、かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできない女がいた。(12)イエスはこの女を見て、呼びよせ、「女よ、あなたの病気はなおった」と言って、(13)手をその上に置かれた。すると立ちどころに、そのからだがまっすぐになり、そして神をたたえはじめた」。それはある安息日の出来事でした。主イエスはある会堂で(おそらくはカペナウムのシナゴーグ=ユダヤ教会堂で)集まった大勢の人々に説教をなさいましたが、その群衆の中に「十八年間も病気の霊につかれ、かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできない女がいた」のでした。

 

 古代イスラエルの慣習によれば、このような重い病気の人は、普通は集会に出席することはできませんでした。絶対に禁止されていた、というわけではないのですが、自粛することを求められていたのです。ましてこの女性は18年間も重い病気に苦しめられ、身体は屈曲したまま、伸ばすこともできなかったというのです。それは彼女にとってどんなに過酷な18年間であったことでしょうか。おそらく歩くことさえ不自由な身体であったことでしょう。この女性を、主イエスは説教の途中で見つめたもうたのでした。主イエスのまなざしがこの病気の女性に注がれていることを、次第に周囲の人々は察知し始めました。たぶん律法に喧しいパリサイ人などは、主イエスを失脚させようとして、虎視眈々と事の成り行きを見ていたに違いありません。

 

 そこで12節を見て下さい。そこには「イエスはこの女を見て、呼びよせ…」とございますが、原文のギリシヤ語を直訳しますなら、むしろ主イエスの側から彼女に近づいて来て下さったのです。つまり、主イエスは説教壇を降りて、この病気の女性に近づき給うて、そして言われますには「女よ、あなたの病気はなおった」と、こう宣言して下さいました。そして御手を彼女の頭の上に置いて下さった。これは祝福と癒しのためであります。びっくりしたのは会堂に集まっていた大勢の人々でした。いったい何事が起こったのかと訝ったことでした。人々の好奇と非難のまなざしがいっせいに、主イエスとこの女性に向かって注がれたことでした。しかしそれは驚きの始まりにすぎませんでした。

 

 大勢の人々が観ている中で、なんとこの女性の屈曲した身体はみるみるうちにまっすぐに伸びて健やかなものになり、そして彼女は神を讃美しはじめたのです。つまり、18年間も彼女を苦しませ続けていた病気が主イエスによって癒されたとき、彼女はそこで健やかに立ち上がり、自分の身に起こった祝福と癒しの出来事のゆえに、主なる神を讃美しはじめたのです。そして、この驚くべき出来事を目の当たりにした大勢の人々もまた、彼女と共に神を讃美し始めたのではなかったでしょうか。主イエスのお語りになった説教が、聖霊によって現臨したもう神の御言葉が、私たちに真の祝福と癒しと救いを与えるのです。そして、それに対する私たちの心からの応答は讃美の歌声にならざるをえないのです。「もし彼らを黙らせたなら、石が代わって叫ぶであろう」。

 

 そこで、この一連の出来事(主イエスがなさった奇跡の御業)は、いったい何を私たちに宣べ伝えているのでしょうか。まず私たちは、この女性が「十八年間も病気の霊につかれ、かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできない女」であったという事実を改めて心に留めなければなりません。自分はそんな重い病気とは無縁だと言う私たちに対して、今朝のルカ伝の御言葉は「いや、この病気こそあなた自身の姿なのだ」と明確に語り告げているからです。昔からの諺に「蟹は自分の体に合う穴を掘る」という言葉があります。私は海岸でいろいろな生物を観察するのが好きですが、本当にこのことわざ通りだと感心する場面によく出会います。しかし実は、これはなにも蟹ばかりではないのであって、私たち人間も同じなのではないでしょうか。

 

 私たちは人生の中で、思わぬ困難や悲しみに遭遇した時、すぐに身を屈めてしまうのです。そして、自分の身の丈に合った居心地の良い穴を見つけようとするのではないでしょうか。それはひとつには、苦しいときの自己防衛本能に由来する行為であって、それが全ていけないということはできないかもしれません。むしろ本当の問題は、私たちが自分に都合の良い穴にじっと身を潜めることによって、自分はもう安心だ、既に安全だと、思い違いをしてしまうことにあるのです。つまり、そこで私たちは神を忘れるのです。「苦しい時の神頼み」ならまだそこには希望があるのです。しかし私たちが陥る罪は「苦しい時の神離れ」になってしまうことにあります。

 

 こんなに自分は苦しいのだから、悲しいのだから、忙しいのだから、心が乱れているのだから、だから当然のように礼拝を休む、そういう気持ちに、私たちはなったことが一度もないと言えるでしょうか?。あんがい私たちにとって「苦しい時の神離れ」は日常的な自分の姿になってはいないでしょうか。そのようにして、いつのまにか私たちの人生の姿勢もまた、いつも屈曲したものになってしまうのではないでしょうか。すなわち、招き給う神を、救い主なる主を見上げることをせず、いつも自分の足元だけを見つめている姿です。主に寄り頼まずして、いつも自分自身を頼みとする姿です。神を信じて仰ぐのではなく、自分の力を信じて、自分を人生の中心に据えようとする姿勢です。そこには、フリートリッヒ・ニーチェの人生がそうであったように、虚無と絶望しか残りません。

 

 ニーチェという人は、神無き存在としての人間にとって、救いはありうるのかという問題に、真正面から誠実に取り組んだ哲学者でした。彼が苦しい思索の末に得た結論は、人間の救いは、人間が神に成り代わることによってのみ可能だというものでした。その、神に成り代わることができた人間のことをニーチェは「超人=Uebermensch」と呼びました。英語で言うならスーパーマンです。しかし人間は超人(スーパーマン)にはなりえないのですから、結局のところ、私たちには虚無と絶望しか残らないという結論になります。それこそ、屈曲したままで身体を伸ばしえない私たちの姿なのではないでしょうか。

 

 それならば、神の永遠の御子・主イエス・キリストは、そのような罪と絶望に取りつかれ、屈曲してしまった私たちの人生を、存在を、まっすぐに伸ばして下さるために、健やかなものにして、生命を与えて下さるために、私たちのもとに来て下さった救い主なのです。まさに今朝の御言葉そのままのお姿で、主イエス・キリストは、立ちえず、歩みえないでいた私たちのもとに近づいて来て下さり、そこで私たちに御手を置いて祝福して下さり「わが子よ、あなたの病気はなおった」と宣言して下さるかたなのです。その主イエスの宣言の根拠には何があるのでしょうか?。それこそ、あのゴルゴタの十字架なのです。屈曲した私たちの存在を、その罪のあるがままに、ただこのかたのみが担って下さり、私たちの身代わりとなって、あの呪いの十字架を担い、御自身の生命を献げ尽くして、父なる神の御前に贖いを成し遂げて下さったのです。主イエス・キリストは、そのような贖い主として、私たちのもとに来て、御手を置いて下さるかたなのです。

 

 旧約聖書の624節以下の「アロンの祝福」と世はせれる祝福の御言葉を心に留めたいと思います。「(24)願わくは主があなたを祝福し、あなたを守られるように。(25)願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、あなたを恵まれるように。(26)願わくは主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わるように」。主が私たちに与えて下さる平安は、私たちが安心して蹲ってしまうような平安ではありません。そうではなくて、それは私たちが安心して立ち上がり、神を讃美しつつ、主と共に歩んでゆくことのできる平安なのです。蹲る平安、屈みこむ平安ではなく、立ち上がることができる平安、歩み続けることができる平安、神を讃美し続けてゆく平安、そのような真の平安を私たちに与えるために、主はあなたのために、十字架を担われ、あなたのもとに来て下さり、御手を置いて祝福して下さるかたなのです。祈りましょう。