説    教            イザヤ書512節  ルカ福音書1369

               「園丁の執成し」 ルカ福音書講解〔135

                2022・09・18(説教22381978)

 

 「(6)それから(イエスは)この譬を語られた、「ある人が自分のぶどう園にいちじくの木を植えて置いたので、実を捜しにきたが見つからなかった。(7)そこで園丁に言った、『わたしは三年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか』。(8)すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。(9)それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください』」。

 

 今朝のこの主イエスの譬え話は「園丁の執成しの譬え」と呼ばれているものです。ある人が自分のぶどう畑に一本の無花果の木を植えたというのです。ところが、数年経って、その人が無花果の収穫をしようとしたところ、実が一つも見当たりませんでした。そこで彼はぶどう園の管理を任せていた園丁を呼んで、こう言いました。「わたしは三年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地を無駄にふさがせて置くのか」。するとその園丁は彼にこう申しました。8節以下です。「(8)すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。(9)それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください』」。

 

 私は、皆さんもご存じのように、農学校で学んでいた経験を持つ者です。農学という学問はとても魅力的なものでして、それはいわば応用生物学であり、応用植物学であり、応用昆虫学なのです。しかも理論だけではなく実践が伴いますからますます興味ぶかく感じたものです。そして聖書の中には主イエスがなさった譬えとして、農作業に関するものがたくさん記されています。今朝の御言葉もまさにその一つでありまして、私は17歳の頃、この御言葉を読みながらとても身近な譬えであることに驚かされました。

 

 当時、私が学んでいた農学校には広大な農場がありまして、その一角にぶどう園がありました。そこではマスカット・オヴ・アレキサンドリアという品種のブドウを栽培していました。今日でいうシャインマスカットというやつですね。そしてなぜか、そのぶどう園の片隅には一本の無花果の木がありました。まさに今朝の主イエスの譬えそのままの光景であったわけです。(たぶんその無花果はブドウの受粉を促す蜂を呼び寄せるために植えられていたものです)。ともあれ、その無花果の実は私たち農学校の生徒が自由に食べても良いことになっていたものですから、私などはずいぶんその無花果の木にお世話になったものです。懐かしい思い出です。(私はいまだに、あのぶどう園で食べた無花果よりも美味しい無花果に出会ったことがありません)

 

 さて、ところが、主イエスの譬え話の中の無花果の木は、植えてから3年も経つのに実が一つも実らなかったというのです。すると人間というものはまことに身勝手なものでありまして、ぶどう園の主人は園丁を呼びつけて申しますには、あんな役に立たない無花果の木は伐ってしまえと命じたのでした。あっても場所塞ぎなだけの邪魔な無花果だというのがその理由でした。しかし、これを聞いた園丁は必死になってこの無花果の木を執成したのです。「ご主人様、どうかもう一年だけ待って下さい。私にあと一年だけ、この無花果の手入れをさせて下さい。もしそれでも実がならなかったら、その時には伐り倒して戴いて結構です」と。

 

 この、ある意味でとてもわかりやすい主イエスの譬え話は、どのような福音を私たちに伝えようとしているのでしょうか?。まず私たちは2つのことを念頭に置く必要があります。それは、1)主イエスはどのような場面でこの譬え話をお語りになったのか、2)この園丁の執成しは何を意味するのか、です。

 

 まず1)、主イエスはどのような場面でこの譬え話をお語りになったのかをご一緒に顧みて参りましょう。私たちは先週、同じルカ伝13章の1節から5節までを学びました。そこでは主イエスは、当時起こったポンテオ・ピラトによるガリラヤ人殺害と、エルサレムのシロアムの塔の倒壊という2つの出来事にお触れになって、私たち全ての者に「あなたがたも悔改めなければ、みな同じように滅びるであろう」と言われました。この「悔改め」というのはただ単に神を信じるだけではなく、神に向かって自分を投げかけることです。そこで大切なことは、悔改めの恵みの主語(主体)は私たちではなく、私たちを待っていて下さる主なる神ご自身であるという事実です。

 

 次に2)、この園丁の執成しは何を意味するのか、について考えてみたいと思います。それこそ1)に深く関わってくるのですが、私たちは自分自身の力では自分の罪を認識することさえできないほど、罪に対して全く無力な存在にすぎないのです。特に「原罪の問題」においては、私たちは徹底的に無力であり、自分自身の中にいかなる救いの可能性も持ちえない存在にすぎません。では、そのような私たちがどのようにして救われるか、神の御国の民とならせて戴けるか、ということが重要な問題です。実はこの難しい問題と「園丁の執成し」は深く結びついているのです。

 

 どういうことかと申しますと「執り成し」というのは、全く無力な相手を救うために自分が犠牲になる行為を意味するからです。このことを最もよく説明するのはドイツ語で執成しを意味する“Vermittlung”という言葉です。これは直訳すると「仲保者になること」です。そして、主イエス・キリストは、主イエス・キリストのみが、原罪によって滅びへの道を歩んでいた私たちの救いのために、唯一の仲保者になって下さったかたなのです。さらに申しますなら、イエス・キリストが全世界の真の唯一の救い主であられるのは、このかたのみが父なる神に対して、十字架の死によって唯一永遠の「執り成し」を成し遂げて下さったからなのです。私たちが主イエス・キリストを「わが主・わが救い主」と告白するのは、主が私たち全ての者のために父なる神に対して真の執り成しをなして下さったからです。そして、その真の執り成しとは何によって行われたかと申しますと、それこそ十字架の御苦しみと死によってなのです。

 

 主イエス・キリストは、罪の支配に対して全く無力であり、救いの可能性が皆無であった私たち全ての者のために、御自身を全く犠牲となし、あの呪いの十字架を担いたもうて、御自身の生命を献げ尽くして下さったかたです。言い換えるなら、十字架の主イエス・キリストのみが、私たちの罪と滅びを一身に担われて、父なる神の御前に真の執り成しを成し遂げて下さったのです。永遠の神の御子が、私たちの救いのために、あのゴルゴタの十字架において、ずたずたに傷つき、死んで、葬られて下さった。それは、永遠なる神ご自身が、神の外に出て下さってまで、私たちの罪の贖いのために執り成しをして下さったことです。私たちのために、唯一永遠の仲保者になって下さったのです。

 

 仲保者とは、矢面に立つ者という意味の言葉です。主ははっきりと私たちに語って下さるのです「あなたは私の背後にいなさい、私があなたのために矢面に立って、あなたのすべての罪の報いを引き受けるから、あなたは安心していなさい」と。そのようにして、私たちに真の救いを与えて下さるかたこそ、十字架の主イエス・キリストなのです。今朝の御言葉「園丁の執成し」は、そのような主イエス・キリストの救いの御業を、贖いの御業を、私たち全ての者に明確に宣べ伝えているのです。祈りましょう。