説    教            詩篇511617節  ルカ福音書1315

               「汝らも悔改めずば」 ルカ福音書講解〔134

                2022・09・11(説教22371977)

 

 「(1)ちょうどその時、ある人々がきて、ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血に混ぜたことを、イエスに知らせた。(2)そこでイエスは答えて言われた、「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。(3)あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。(4)また、シロアムの塔が倒れたために圧し殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。(5)あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。

 

 今日から私たちはルカ伝第13章の学びに入ります。そこで、この13章には最初からとても衝撃的な出来事が記されているのです。それは1節にございますように「ある人々」が主イエスのもとにやってきて「ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血に混ぜたこと」を報告したという出来事です。このピラトと申しますのは言うまでもなく、当時のユダヤの総督であったローマの高官ポンテオ・ピラトのことをさしています(ちなみに、ポンテオとは総督という意味のラテン語です)。このピラトという人はユダヤを統治するにあたって非常に強権的な政策を行ったことで有名でした。

 

当時のユダヤには熱心党(ギリシヤ語でZēlōtai)という民族主義的な過激派組織がありまして(主イエスの十二弟子の一人であった熱心党のシモンはその一員でした)宗主国であったローマに対するテロリスト活動を絶え間なく繰り広げていました。そして、その熱心党の本拠地がガリラヤにあったことから、ピラトはガリラヤの住民に対する締め付けを厳しく行っていた、そのような背景が今朝の御言葉にはあったわけです。あるとき、この熱心党とガリラヤの人々にとって非常に衝撃的な出来事が起こりました。それは何かと申しますと、まさに今朝の1節に記されているように、総督ピラトが「ガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血に混ぜた」ことでした。

 

 ユダヤ人にとって、エルサレム神殿における犠牲の儀式は非常に重要なものでした。特に毎年3月に行われる「大贖罪日」の儀式においては、大祭司がエルサレム神殿の至聖所において、みずからと全国民の罪の贖いのために深い懺悔の祈りと共に犠牲の子羊を献げることになっていました。こともあろうにピラトはこの犠牲の子羊の血に、殺害したガリラヤの熱心党員たちの血を混ぜたというのです。ということは、大祭司以外は立ち入り禁止の至聖所を侵したわけです。このことはパリサイ人や律法学者たちにとっては驚天動地の一大事であっただけではなく、最も重い神聖冒涜の罪にあたるものでした。当然のことながら、熱心党員たちのテロリズム活動は激しさを増し加えることになりましたし、瞬く間にこのニュースはユダや全土を駆け巡り、それを聞いた人々に激しい怒りを呼び起こしたのでした。

 

 さて、この驚くべきニュースに接した主イエスは、どのような態度を示されたのでしょうか?。人々は(特に熱心党の人々は)当然、主イエスが激しく怒り、熱心党の活動を支持してくれるはずだと思っていました。ところが、主イエスの反応は今朝の御子の2節以下が示すように、完全に人々の意表を突くものだったのです。どうぞ2節以下をご覧下さい。「(2)そこでイエスは答えて言われた、「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。(3)あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。(4)また、シロアムの塔が倒れたために圧し殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。(5)あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。

 

 まずここで主イエスは、報告を受けたエルサレム神殿における神聖冒涜の出来事と同時に、その頃やはりエルサレムで起こった、シロアムの塔の倒壊事件にお触れになって、弟子たちに、私たちに、そして全ての人々に、繰り返し2度も言われました。「あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」と。これはどういうことかと申しますと、主イエスにピラトの罪を報告した人々にとって、罪はポンテオ・ピラトにあり、ローマ帝国の植民地支配政策にあり、またそれに同調するサドカイ派や日和見主義者たちにあったわけです。ようするに、自分たちには罪は無くて、罪は常に自分たちの外側にあると考えていたわけです。さらに申しますなら、自分たちは絶対的に正義の側に立っているのであって、自分たちこそ正義であると、本気で考えていたわけです。

 

 まさにそのような人々に対して、主イエスははっきりと言われるのです。「あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」と。そして改めて、シロアムの塔の倒壊事件に触れられました。4節以下です。「(4) また、シロアムの塔が倒れたために圧し殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。(5)あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。

 

 人間とはまことに愚かな存在でありまして、自分は絶対的な正義を持っていると考えるときに限って、最も残酷な罪を犯すものなのです。正義の名のもとに罪が正当化され、正しい行為だという大義名分によって、隣人に対する罪が覆い隠されるように感じてしまうのが人間なのです。事実、あのロシアによるウクライナ侵略が示すように、全ての戦争は正義の名のもとに正当化され、残虐行為が行われるのではないでしょうか。正義を隠れ蓑にして自己を正当化した人間ほど恐ろしいものはないのです。私たちは正義の名のもとにこそ、平気で罪を犯すのです。残酷なことさえも行うのです。もちろん、主イエスはシロアムの塔が倒壊したことによって死んだ18人の人たちは罪の報いを受けたのだと語っておられるのではありません。そうではなく、もしあなたが「あの人たちは罪の報いを受けて死んだのだ」と思うなら、それは大きな間違いであると語っておられるのです。「(5)あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。

 

 今朝、併せて拝読した詩篇511617節を心に留めましょう。「(16)あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげてもあなたは喜ばれないでしょう。(17)神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」。主なる神が喜び給うものはなんであるか、それは「砕けた魂」「砕けた悔いた心」であると主イエスははっきりと語っておられるのです。私たちは、ときどき、いや、常に、それとは正反対の心を尊んではいないでしょうか?。すなわち、正義感によって驕り高ぶった心、自分の外にだけ罪を見出し、他者を残酷に審こうとする自己保身の心、自分の経験や価値観のみを絶対化して他者を理解しようとしない偏狭な心、自分の利益だけを求めて他者を手段とする自己中心的な心、そのような罪から出る心を、私たちは生活の基準にしてしまっていることはないでしょうか。

 

 もしそうなら、私たちはいま、心新たに神の御言葉を聴かなければなりません。「(17)神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」。神は私たちの砕けた心、悔改めた心をこそ、他の全てにまさって喜び受け入れて下さるのです。ご自身の宝となして下さるのです。なによりも、今日の御言葉を語っておられる主イエス・キリストは私たちの全ての罪の贖いと赦しと救いのために、ゴルゴタの十字架への道を歩みたもうのです。そこで、私たちの罪を贖い、私たちをそのあるがままに御国の民、天に国籍を持つ者として下さり、永遠に変わることなく、私たちといつも共にいて下さるのです。それが、主イエス・キリストがいま、私たち一人びとりに与えていて下さる救いであり祝福なのです。祈りましょう。