説    教            箴言25910節  ルカ福音書125759

               「人生の最重要事項」 ルカ福音書講解〔133

                2022・09・04(説教22361976)

 

 「(57)また、あなたがたは、なぜ正しいことを自分で判断しないのか。(58)たとえば、あなたを訴える人と一緒に役人のところへ行くときには、途中でその人と和解するように努めるがよい。そうしないと、その人はあなたを裁判官のところへひっぱって行き、裁判官はあなたを獄吏に引き渡し、獄吏はあなたを獄に投げ込むであろう。(59)わたしは言って置く、最後の一レプタまでも支払ってしまうまでは、決してそこから出て来ることはできない」。

 

 今日の主イエスの御言葉は、ある意味ではとても分かりやすく、またある意味ではとても分かりにくい言葉であります。まず57節において主イエスは「あなたがたは、なぜ正しいことを自分で判断しないのか」と私たち一人びとりにお訊ねになります。これは直訳するなら「なぜあなたは正しい判断力をもって人生に対処できないのか」という意味の御言葉です。私たちは常日頃、自分は正しい判断力をもって人生の事柄に対処していると思いこんでいます。それは間違いではないでしょう。しかしその反面、では私たちは「人生の最重要事項」に対する正しい判断力をいつも持っているかと問われますなら、口籠らざるを得ない現実があるのではないでしょうか。

 

 そこで、主イエスがこの御言葉において明らかになさっておられる「人生の最重要事項」とは、実は、私たちの罪の贖いの問題なのです。それは、人間どうしの罪の問題ももちろん含みますけけれども、なんと申しましても、主なる神との関係における罪の問題、神学的な言葉を用いますなら「原罪の問題」なのです。原罪とは、私たちが意識するとせざるとにかかわらず、私たちの人生全体を支配している滅びへの法則としての罪をあらわす言葉です。ローマ書715節以下において使徒パウロは、キリストを信じる以前の自分を回想して「私は自分のしていることがわからない」と語り、自分の全生活が罪の法則のもとにあったと告白していますが、それがまさに「原罪=original sin, Ursünde」にほかなりません。

 

 そこで、主イエスは私たちのこの原罪と呼ばれる根深い罪こそ、私たち全ての者にとっての「人生の最重要事項」であることを明らかになさるために、ひとつの譬え話を私たちになさいました。それが今朝の58節以下です。ある人が訴訟問題に巻きこまれたのです。その理由はわかりませんが、最初はたいして大きなこととは思えなかったようです。しかし、最初に掛け違えたボタンは最後まで悪影響を及ぼすのと同じように、この人が巻きこまれた訴訟問題は次第に悪化の一途をたどり、事柄は拗れて、膠着状態となり、ついには役人(検察官)に訴えられる事態になりました。刑事事件としての立件です。そして事もあろうに検察官は彼の罪を立件して裁判所に告訴したのでした。裁判においても事態は悪化する一方でした。彼にとって不利な証拠が原告側から次々と示されました。ついに裁判官は被告人に有罪の判決を下し、彼は刑務所に収監されることになったわけです。

 

 事ここに至りまして、被告人となり、有罪判決を受けたこの人は、ようやく自分がとんでもない最終的な事態に置かれたことを知りました。しかし時すでに遅しでありました。刑務所に収監されたのですから「後悔先に立たず」でした。今朝の御言葉の59節にあるように「最後の一レプタまでも支払ってしまうまでは、決してそこから出て来ることはできない」事態になったわけです。そこで、まさに今朝の御言葉のこの譬え話をなさって、主イエスは私たちに、もっとも賢い解決方法をお示しになるのです。それが今朝の御言葉の58節です。「(58)あなたを訴える人と一緒に役人のところへ行くときには、途中でその人と和解するように努めるがよい」。

 

 主イエスはここで、どういうことを私たちに語っておられるのでしょうか?。伝統的な聖書解釈によれば、被告人は私たちであり、原告は私たちの仲間である人間であり、検察官は教会を、そして裁判官は神をさしていると考えられてきました。しかしそれでは、この譬えが複雑になりすぎます。もちろん、被告人とされ、有罪の判決を受けた人は私たちのことですけれども、それ以外の訴える側、つまり原告側に立つ人々は全て、主なる神をさしていると考えるべきでありましょう。ようするに、主イエスはここで私たち一人びとりに「人生の最重要事項、それは神との早期和解である」とお語りになっておられるのです。あなたの罪があなたを永遠の滅びに引き込む前に、あなたは神と早期和解するべきであるということです。それこそが「人生の最重要事項」であると、主イエスははっきりと語っておられるのです。

 

 では、神との和解はどのようにして実現できるのでしょうか?。それこそ私たちにとっての一大事ではないでしょうか?。先ほど私は原罪についてふれましたけれども、原罪とは、私たちが意識するとせざるとにかかわらず、私たちを根本的に支配している罪の法則のことです。ですから、それはいわば、私たちにとって認識不可能な罪のことなのです。それならば、私たちにとって認識不可能である起訴事項について、どのようにすれば私たちは神と和解できるのでしょうか?。「罪の認識はできない、しかし神との和解は絶対に必要である」これ以上に難しい問題がどこにあるのでしょうか?。

 

まさにこの難問を解く鍵を、主イエスは最初の57節で示しておられるのです。すなわち「あなたがたは、なぜ正しいことを自分で判断しないのか」という御言葉です。それは冒頭でも申しましたように「なぜあなたは正しい判断力をもって人生に対処できないのか」という問いです。つまり主イエスは、それが私たちの経験と認識を超えた超越論的な問題(Transzendentalistische Fragen)であるということを明らかになさっておられるのです。超越論的な問題なのですから、それは超越者であられる神のみが私たちに解決を与えて下さる問題です。それが私たちの罪の救い、まさに原罪からの救いなのです。

 

 主イエス・キリストはどういうかたなのでしょうか?。真の神の御子であられ、神と本質を同じくしたもうかたであるにもかかわらず、主は私たちの救いのために私たちの罪のどん底にまで降りて来て下さり、そこで「落ちて行かざるをえない私たち」を原罪もろともに徹底的に受け止め、ご自身の生命をもって贖って下さったおかたなのです。それが、主イエス・キリストがゴルゴタにおいて担って下さった十字架です。30年以上前に私が洗礼を授けたかたが、そのキリストの贖いの恵みについて「私のために勝手に十字架にかかって下さった」と言い表しました。私はそれを聞いて、本当にその通りだと思いました。そして「主は勝手に十字架にかかって下さったからこそ、その恵みは有難いのですよ」と申しました。

 

 主イエス・キリストは、超越論的な問題である私たちの原罪を、黙って、勝手に、たったお一人で、あの呪いのゴルゴタの十字架におかかりになることによって、贖って下さったのです。この「贖う」という字は「代金を払って自由にする」という意味です。罪の奴隷状態であった私たちのために、主イエス・キリストは、ご自身の生命という代価を支払って、私たちをその罪の支配から解放して下さり、真の自由と幸いと平和を、神との和解を、勝手に、一方的に、無条件で、私たちに与えて下さったのです。言い換えるなら、支払い能力の全くない私たちの身代わりになって、神の御子ご自身が、その超越論的な莫大な「救いの代価」を支払って下さり、そのとによって、主を信じる全ての者に、勝手に、一方的に、無条件て、贖いと解放と自由を与えて下さったのです。それが、いま私たちに与えられている、主イエス・キリストの十字架による罪からの贖いであり、神が私たちに与えて下さった救いの出来事なのです。祈りましょう。